第8話 磨かれた玉座
証拠は、紙の中に眠っていた。
信任投票の翌日。貴族院は引き続き開廷し、ヴェルナー侯爵の罪状審議が始まった。議場の空気は昨日とはまるで違う。昨日は解放の空気だった。今日は、刃物のような静けさ。
私は議場の中央に立っていた。昨日まで幽閉されていた囚人が、今日は告発者として立つ。世界は七日で変わる。建国憲章の一条で変わる。
「ヴェルナー侯爵」
私の声が議場に落ちた。
「あなたが姉上に提出した外交報告書。過去五年分を調査いたしました」
ヴェルナー侯の目が泳いだ。あの穏やかな笑みが、仮面のように固まっている。
「報告書には、隣国との条約交渉の功績が侯爵の名前で記されています。しかし」
ここだ。
「条約草案の原本をご覧ください」
マリアが、議場の書記官を通じて原本を配布する。五年分の通商条約草案。私が徹夜で書いた、あの羊皮紙たち。
「各草案の文末にご注目を。インクの濃淡に、微かな不規則性があります」
議場の貴族たちが、羊皮紙に顔を近づける。
「これは暗号署名です。エストレア語とヴェスター語の混合暗号で、筆者を特定する印が埋め込まれています。この署名を解読できるのは――」
言葉を切った。
「ヴェルナー侯爵、あなたにこの署名が読めますか」
侯爵の唇が動いた。声は出なかった。
「読めないでしょう。あなたはヴェスター語を一言も理解しない。にもかかわらず、外交報告書には『自ら交渉に当たった』と記されている」
議場の空気が張りつめていく。
◇◇◇
レオンハルト殿下が、来賓席から立ち上がった。
「ヴェスター王国外交特使として、証言いたします」
議場が静まり返る。
「五年前の条約交渉。相手方として同席した私の記録に、ヴェルナー侯爵の名前は一度も出てきません。交渉の場にいたのは、セレナ殿下お一人でした」
そして、レオンハルトは続けた。
「セレナ殿下の条約文には、独特の余白の使い方があります。文書の余白に、外交上の暗号を埋め込む技法です。これは殿下独自のもので、私はこの技法を通じて殿下の文書を他のどの外交官のものとも見分けることができます」
余白の使い方が独特で好きだ。
あの言葉の意味が、今、全員の前で明かされた。好き嫌いの話ではなく、暗号の話だった。いや、両方だったのかもしれない。レオンハルトの声が、わずかに上ずっていた。来賓席からこちらを見ている目が、外交官の顔と違うことに気づいた。
◇◇◇
引き継ぎ書の件も、暴かれた。
「セレナ殿下は幽閉前に、外交文書の引き継ぎ書を残されました。しかし、暗号鍵の口頭引き継ぎをヴェルナー侯が妨害しました。結果、引き継ぎ書は暗号なしでは解読不能。後任者が読めないまま放置されていたことが判明しています」
これはマリアの証言だった。小さな声だったが、議場の隅まで届いた。あの侍女が、四十二名の貴族の前で証言台に立っている。手が震えていたけれど、声は震えなかった。
ヴェルナー侯が反論を試みた。
「私は国家の安全のために――反逆者の言葉を信じないのは当然の――」
「反逆の証拠は偽造でした」
私は遮った。
「あの手紙の筆跡を鑑定してください。右端の筆圧が異なります。私の癖は文字の末端を跳ねることですが、あの手紙にはそれがない。侯爵が用意した偽造品です」
議場に筆跡鑑定の結果が回覧された。
ヴェルナー侯の顔から、最後の色が消えた。
◇◇◇
爵位剥奪。貴族院の全会一致で決議された。
ヴェルナー侯――いや、もはや侯爵ではない。ヴェルナーという名の老人が、護衛に連れられて議場を出ていく。その背中は、初めて見る角度だった。いつもの穏やかな笑みはない。肩が小さく丸まっている。五十五年の人生で築き上げたものが、一時間で崩れた。
同情はしない。だが、目をそらしもしなかった。これが私が引き起こした結果だ。前世で汚職を告発する記事を書いた時も、最後まで相手の顔を見た。それが、告発する側の責任だと思ったから。
ヴェルナーの靴音が議場の扉の向こうに消えるまで、誰も口を開かなかった。五十五年の栄光が去る音を、全員が聞いていた。
次に、エレノアへの処分が議論された。
王族の身分は維持する。だが王政代行の権限は剥奪。離宮ヴァルトハイムでの隠居。実質的な追放。
姉上は、演壇の縁を握ったまま、一言も発しなかった。
議場が静まった時、私は姉上に向き直った。
言葉を探した。十年分の感情の中から、たった一つの言葉を。怒りではない。悲しみでもない。そのどちらでもあり、どちらでもない、名前のない何か。
「姉上」
声が出た。自分でも驚くほど、静かな声だった。
「その玉座は、わたくしが磨いたものです」
議場が凍りついた。
姉上の目が、初めて――本当に初めて、私を見た気がした。黒子としてではなく、道具としてでもなく。一人の人間として。
その目に何が映っていたのか、私にはわからなかった。理解したのか、まだ理解していないのか。それすらもわからない。ただ、姉上の指が演壇の縁から静かに離れたのを、私は見ていた。
◇◇◇
全員が去った後、私は一人で玉座の間に向かった。
磨かれた大理石の部屋。中央に置かれた玉座。木と金の装飾が施された、古い椅子。座面に手を置いた。木目の感触が、指先に伝わる。
長い年月で磨かれた木の手触り。何人の王がこの椅子に座り、何人の手がこの肘掛けを握ったのだろう。
ここに座ることが、私の勝利なのかどうか、まだわからない。嬉しいとも、誇らしいとも、違う。達成感というには重すぎるし、解放感というには寂しすぎる。
なんというか。
名前がつけられないのだ。この感情に。前世でも今世でも、辞書にない感情がある。
手のひらを玉座の座面から離した。木の温もりが、しばらく手に残った。
レオンハルトが議場の隅で「よくやった」と言った。それだけで十分だと、自分の中の何かが認めている。
窓の外、冬の空が高く澄んでいた。




