第7話 信任
議場の扉は、外から開けられた。
七日ぶりの陽光が目を刺す。北の塔の薄暗さに慣れた瞳には、貴族院の高窓から注ぐ冬の光が白すぎた。
護衛に両脇を挟まれて、私は議場の中央に立った。形式上は「釈明の機会」として連れ出されたことになっている。幽閉された王女が、濡れ衣を晴らすための弁明を行う場。
だが今日の議場は、釈明の場ではない。
円形の議場。四十二の席に、貴族院議員の全員が着席していた。通常の議会では空席が目立つ場なのに、今日は一つも空いていない。臨時召集の効力だった。レオンハルト殿下が三日前に提出した「条約不履行に対する公式抗議」が、国家の危機を宣言する根拠となり、貴族院の臨時召集が発動された。
来賓席にレオンハルトの姿がある。黒い外套、銀の留め具。いつもの通りの装い。その顔は外交官の無表情だったが、私と一瞬だけ目が合った時、口元がほんの微かに動いた気がした。
演壇にはエレノアが立っていた。金髪が朝日に透ける。その横にヴェルナー侯。穏やかな笑み。いつもと同じ温度の、信用できない笑顔。
「セレナ」
姉上の声。議場に響く。
「弁明の機会を与えます。隣国との密通の嫌疑について――」
「その前に」
別の声が割り込んだ。ガルシア伯爵。議員席の前列から立ち上がり、演壇に向かって一歩踏み出す。
「動議を提出いたします」
議場がざわめいた。エレノアの眉が微かに動く。ヴェルナー侯の笑みが、初めて揺らいだのが見えた。
「建国憲章第十七条に基づき、信任投票を要求いたします」
信任投票。
二百年間、一度も使われなかった条項。
ガルシア伯が議場を見回す。
「我々は問わねばなりません。この国を率いるにふさわしい王は、誰か」
◇◇◇
投票の前に、証言の時間があった。
最初に立ったのは、外交部の翻訳班長だった。
「ヴェスター王国との通商条約。修正案を書いたのは、エレノア殿下ではありません。第一条から最終条まで、すべてセレナ殿下のお手によるものです」
議場がざわめく。エレノアの顔から血の気が引いた。
次に立ったのは、辺境の男爵。
「五年前の国境紛争。我が領地を救った停戦合意を取りまとめたのは、セレナ殿下でした。姉君の名前で提出されましたが」
また一人。また一人。
ドレスデン男爵。つい先日、ヴェルナー侯の脅迫で署名を撤回した人だ。
「私は脅されました。ヴェルナー侯爵に。息子の不祥事を公にすると。しかし、もう恐れません。セレナ殿下がこの国にしてくださったことを、黙って見ていることの方が恥ずかしい」
声が震えていた。だが、立っていた。
証言が続く間、私は議場の中央に立ったまま、石の床の冷たさを靴底に感じていた。一人、また一人と貴族たちが立ち上がるたびに、議場の空気が変わっていく。重かった空気が、少しずつ軽くなっていく。
十年分の仕事が、声になっている。
鼻の奥がつんと熱くなった。右手の人差し指が、無意識に太ももの脇で机を叩く仕草をする。こんな場所にキーボードはない。でも指は覚えている。何かを書きたがっている。この瞬間を、記録したがっている。
◇◇◇
投票が始まった。
記名投票。一人ずつ、名前を呼ばれ、「セレナ」か「エレノア」かを宣言する。
最初の十名。全員が「セレナ」と言った。
次の十名。全員が「セレナ」と言った。
三十名を超えた辺りで、ヴェルナー侯の顔が蒼白になった。唇が動いている。何か言おうとして、声が出ない。派閥力学の達人が、力学そのものに押し潰されている。
最後の議員が立ち上がった。
「セレナ殿下」
四十二名。満場一致。
議場が、一瞬の静寂に包まれた。
膝が震えていた。靴の中で足の指が丸まっている。呼吸を忘れていたことに気づいて、小さく息を吸い込む。肺に空気が入ると同時に、視界が滲んだ。泣いているのではない。いや。泣いているのかもしれない。前世で国会中継を見続けた十二年間、画面の向こう側で起きていたことが、今、この身体の内側で起きている。満場一致という結果の重さが、数字ではなく、骨の芯に響く振動として伝わってくる。四十二の声。一つ残らず、私の名前を呼んだ。それは政治的な勝利であると同時に、十年間「黒い子供」として影に徹した日々への、遅すぎる返答だった。右手が震える。握りしめようとして、力が入らない。石の床を踏みしめて、どうにか立っている。前世なら記事の締め切りに追われる手が、今は何も掴めずに宙に浮いている。
それから、拍手が起きた。控えめに始まり、じわじわと大きくなり、最終的に議場全体を満たした。
エレノアが演壇の縁を掴んでいた。白い指が石に食い込むように。その顔に浮かんでいたのは怒りではなく――なんというか、何かを初めて知った者の表情だった。
私は一歩前に出た。
「ありがとうございます」
声が、議場の隅まで届いた。姉上と同じ議場で、初めて自分の声で話している。
「だが、まだ終わっておりません」
ヴェルナー侯を見た。穏やかな笑みが消えた老臣の顔。
ふと、十年前の朝が脳裏をよぎった。初めて姉上の執務室に呼ばれた日。「お前の仕事は、私の仕事を支えることよ」と言われて、書類の山を渡された。あの日の私は、それでいいと思っていた。影で働くことに慣れていた――いえ、前世でもデスクの裏側から政治を見る仕事をしていたから、表舞台に立たないことを当然だと受け入れていた。記者席はいつも傍聴席の端だった。あの頃と同じだと、自分に言い聞かせていた。あの日から十年。書類の山は国一つ分の重さになった。あの朝の書類の匂いと、今この議場に満ちる拍手の残響が、同じ空気の中で重なる。姉上、私はもうあの執務室には戻りません。
「ヴェルナー侯爵。貴方にもお聞きしたいことがあります」
議場の天井画が、修復されて色が鮮やかになっていることに、そのとき初めて気づいた。改修費はどこから出たのだろう――と、前世の記者が頭の隅で考える。
不思議と、怖くなかった。




