第6話 対等な同盟
泣いていた。マリアが。
差し入れの籠を机に置いたまま、マリアは両手で顔を覆っていた。嗚咽を堪えようとしているのに、肩が震えるのを止められない。石壁の小部屋に、彼女の呼吸だけが響いている。
「マリア」
「申し訳……ありません、殿下」
「謝らないで」
「でも、殿下は……昔から、全部一人でやろうとなさる」
その言葉が、予想外の角度から胸を突いた。
「母后様がお亡くなりになったときも、殿下はお一人で外交部を引き継いで。十二歳で。誰にも助けを求めず」
知っている。覚えている。あの頃はそうするしかなかったのだ。姉上は悲しみで部屋にこもり、父上は政務に追われ、ヴェルナー侯は「女子供に外交は無理だ」と鼻で笑った。
「殿下がどれだけ頑張っても、誰もお礼を言わない。功績は姉君のものになる。それでも殿下は笑って――」
マリアの声が途切れた。
「――なのに今も、お一人で全部解決しようとしている。もう、十分です。十分やったんです、殿下」
視界の端が白くなった。立っているのに、床が遠い。
涙ではない。涙の手前にある、もっと大きな何か。前世の記憶が混じり込んでくる。新聞社の廊下で、先輩記者に「お前、無理しすぎだ」と言われた夜。「大丈夫です」と答えた。大丈夫だった。大丈夫なまま、半年後にデスクの上で死んだ。
「マリア」
声がかすれた。
「私は――」
続きが出てこない。大丈夫。違う。助けて。違う。ごめんなさい。それも違う。全部違う。全部本当だ。どれを先に言えばいいのかわからない。言葉が喉の手前で渋滞している。
右手が、無意識に机を叩いていた。前世のキーボードを叩く指。原稿の締め切り前に、こうやって指を動かしていた。考えが詰まると手が勝手に動く。癖だ。二つの人生を超えても消えない癖。
たぶん、両方だ。大丈夫でありたいのに、助けが必要だということを、認めたくなくて、でも認めなければならなくて。その二つの感情が胸の中でせめぎ合って、どちらの言葉も出口を塞いでいる。
一人でやり遂げることに意味があると信じていた。一人で完結できることが、自分の価値の証明だと。黒子は黒子として完璧であることでしか、存在を証明できない。
その思い込みが、前世で私を殺した。
「……マリア。一つ、頼んでいい」
マリアが顔を上げた。涙の跡が頬に光っている。
「レオンハルト殿下に、連絡を取ってほしいの」
◇◇◇
その夜。窓辺に灯りを置いた。
小さな蝋燭。マリアが差し入れに忍ばせてくれた一本。鉄格子の向こうに揺れる炎が、石壁をゆらゆらと照らす。
どれくらい待っただろう。風が冷たくなり、蝋燭が半分ほど溶けた頃。
窓の下から、低い声が聞こえた。
「セレナ殿下」
レオンハルト殿下の声だった。外交特使が、夜の闇の中、幽閉塔の下に立っている。黒い外套が暗闇に溶けて、銀の留め具だけが月光を反射していた。
「殿下、こんな夜更けに。護衛の目は――」
「外交特使の夜間の行動に、エストレアの護衛は干渉できない。条約の第四条、外交官の移動の自由に関する条項だ」
法的根拠を先に出す。この人らしい。そしてその条項を書いたのは、他でもない私だった。
「提案がある」
言葉が短い。この人はいつも、大事なことほど言葉を削る。外交の場では雄弁なくせに、個人的な話になると途端に不器用になる。銀細工のように精緻な言葉選びが、感情を乗せた途端に壊れる。
「隣国との条約が履行されていない。それを公式に抗議する。これは、外交特使としての正当な権利行使だ」
条約不履行への抗議。それが出されれば、国家の危機に該当する。貴族院の臨時召集が可能になる。
「私個人の好意ではない。ヴェスター王国の国益に基づく行動として、条約相手国に履行を求めるだけだ」
建前だ。完璧な建前。外交官として、一点の隙もない論理。
「ただし」
レオンハルトの声が、わずかに変わった。外交用語の硬さが、一瞬だけ揺らぐ。
「……国と国ではなく、私個人として。助けたいと思っている。いや、これは――外交特使としての見解として」
言い直した。今のは、言い直しだ。
私には見えなかったけれど、言い直す前の一瞬、声の温度が変わった。外交用語の硬さの下に、もっと柔らかいものが透けた気がした。暗闇の中で見えないのが、少しだけ惜しかった。
「条件があります」
私は答えた。声が思ったより安定している。
「これは借りではなく、交換です。条約更新の際に、ヴェスター側に有利な修正を一点認めます。私が書いた草案の第七条、関税率の据え置き。これを殿下への対価とします」
沈黙。
それから、窓の下で小さな笑い声が聞こえた。この人が笑うのを、初めて聞いた気がする。
「……交渉が上手い」
「外交官ですから」
「外交官は、私だ」
「なら、対等ですね」
対等。その言葉を口にした瞬間、胸の中で何かが静かにほどけた。借りでも恩でもない。対等な取引。それなら、受け入れられる。
私の矜恃は、手放す必要がなかった。ただ、形を変えただけだ。
「殿下」
「はい」
「……本は、役に立ちましたか」
「第七章が、特に」
「それは良かった」
「殿下」
もう一つ、言いかけて止まった気配があった。夜の空気の中で、ほんの一拍。
「……おやすみなさい」
それだけ言って、レオンハルトの足音が遠ざかっていく。銀の留め具の微かな光が、闇に消えた。
おやすみなさい。外交用語ではない、ただのおやすみなさい。それがなぜか、どんな条約の言葉より、耳に残った。
窓辺の蝋燭が、最後のひと揺れをして消える。
暗闘の中で、私は自分の手のひらが温かいことに気づいた。いつからだろう。マリアが泣いた時からか。レオンハルトの声を聞いた時からか。わからない。
ただ、温かかった。
貴族院の臨時召集。あと七日。
明日からは、一人ではない。
そのことが嬉しいのか怖いのか、正直に言えば、まだわからない。でも、わからないまま進むことを、今夜初めて許そうと思った。




