第2話 鍵のない暗号
夢の中で、私はまだ東京にいた。
蛍光灯の白い光。ノートパソコンの画面。原稿の締め切りまであと三時間。デスクの上に積まれた取材メモの山と、飲みかけの缶コーヒー。あの匂い。紙とインクと、少し酸化したコーヒーの混ざった匂いを、目が覚めた今でも鼻の奥に感じる。
目を開けると、執務室の天井があった。
石造りの天井。木枠の窓から差し込む朝日。ここは東京ではない。エストレア王国の王宮で、私はセレナという名の王女で、三十二歳の記者はもういない。
起き上がり、寝台の端に腰かける。耳の後ろが冷たい。秋が深まっている。
……前世の夢を見る頻度が、最近増えている。
◇◇◇
執務室の机に、昨夜届いた外交便が三通並んでいた。侍女のマリアが朝の茶と一緒に持ってきてくれたものだ。
「殿下、お顔の色がすぐれませんが」
マリアが湯気の立つ杯を差し出しながら、眉をひそめる。三十歳のこの侍女は、母上が亡くなった年から私の世話をしてくれている。宮廷で唯一、私の仕事の実態を知る人。
「大丈夫よ。少し夢見が悪かっただけ」
「また、あの……前の世の夢ですか」
私は曖昧に笑った。マリアだけには、前世の記憶があることを打ち明けている。十五の時に高熱を出して寝込んだ夜、うなされながら「しめきり」「げんこう」と異国の言葉を口走ったのを聞かれたのがきっかけだった。
外交便の一通目を開く。ヴェスター王国の外務省からの定例書簡。二通目は国境の通行記録。三通目の封筒に、見覚えのある硬い筆跡。
レオンハルト殿下の部下からだった。
中身を読む。形式上は条約更新に関する事務連絡だが、行間に含みがある。「セレナ殿下への直接の連絡経路を確保したい」という意図が、外交文書の定型文の隙間から透けて見える。
この人たちは、私を名指しで必要としている。
その事実が、胸のどこかを温める。いや、正確に言えば温めるのとは少し違う。何かが解けるような。
「マリア」
「はい」
「ヴェルナー侯が最近、姉上と密談しているという話を聞いたことは?」
マリアの手が止まった。一瞬だけ。それから何事もなかったようにティーポットを棚に戻す。
「……昨夜、侯爵の書記官が姉君の私室に書類を運んでいるのを見ました。深夜でした」
「そう」
深夜の書類。ヴェルナー侯の「静かな場所をご用意する」という言葉。点と点が、線になりかけている。
前世の記者の勘が、うなじの辺りでざわめく。
◇◇◇
午後、私は書庫に籠もった。
表向きは法務資料の整理。実際には、外交文書の暗号体系を見直している。
エストレアの外交暗号は、母上の代に作られた。当時はそれで十分だった。だが今は安全とは言い切れない。ヴェルナー侯が外交部の人事に介入し始めた三年前から、暗号の安全性に疑問がある。
私は新しい暗号層を設計した。ヴェスター語の語彙を鍵に使う。この言語を読み書きできるのは、宮廷の中では私だけだ。翻訳班の八名はエストレア語への変換ができるが、暗号としての構造設計は私の頭の中にしかない。
条約文の余白に、肉眼では区別しにくい細工を施す。インクの濃淡の微妙な差。文字の間隔の僅かなずれ。普通に読めば何の変哲もない条約文だが、鍵を知る者が読めば、余白そのものが別の文書になる。
母上が遺してくれた暗号体系の上に、もう一層。もっとも、筆者を特定する署名自体は以前から全ての条約文に埋め込んでいる。母上に教わった手法で、インクの濃淡の不規則な揺らぎとして。五年分の条約草案すべてに、私の署名が眠っている。新しい層は、それに加えた保険だ。
気づけば日が暮れかけていた。
書庫の高い窓から差し込む夕陽が、積み上がった羊皮紙の山を橙色に染めている。埃っぽい空気の中に、古い革の匂いが混じる。前世で暗号クロスワードにはまった夜のことを思い出した。深夜のコンビニで買った雑誌の付録。あの頃は趣味だった。寝る前のささやかな楽しみ。今は、生き残るための技術になっている。
ペンを置き、指を伸ばす。右手の人差し指がかすかに痺れていた。
◇◇◇
夕食の後、マリアが密かに持ち込んできたものがあった。
「レオンハルト殿下の部下の方から、殿下宛にとお預かりしました」
小さな包み。中には一冊の本。ヴェスター語で書かれた『外交慣例の手引き――第三版』。実用書だ。しかも改訂版。
マリアが言う。
「その方、仰ってました。『セレナ殿下の書く条約文は、余白の使い方が独特で好きだ、とレオンハルト殿下が』と」
余白の使い方。
……それは褒め言葉なのだろうか。外交文書の余白を褒める人を、私は前世を含めても知らない。
本のページをめくる。栞代わりに乾燥した花が一輪挟まれていた。薄紫の、名前のわからない小さな花。ヴェスターの野花だろうか。
栞にしては繊細すぎる気がしたが、深くは考えなかった。外交官は細やかな人なのだろう。ヴェスターの人は、総じて手仕事が丁寧だ。銀細工の国だから、とマリアが以前言っていた。
本の巻末に走り書きがある。「第七章が参考になるかと存じます」。レオンハルト殿下の筆跡ではない。部下の手だろう。だが、この本を選んだのは殿下自身に違いなかった。条約更新期限を控えた今、この改訂版を必要とするのは私だけだと、あの人は知っている。
◇◇◇
その夜、執務室の灯りの下で、私は一枚の羊皮紙に向かっていた。
書いているのは外交文書ではない。この国の建国憲章の書き写し。その第十七条。
『貴族院議員の三分の二以上の賛成をもって、王位継承者を別の王族に変更することができる』
信任投票。
建国以来二百年、一度も使われたことのない条項。法務部を管轄していた私でなければ、この条項の存在すら知らないだろう。
使う時が来るかどうかは、わからない。
正確に言えば。
使わなければならない時が来るかもしれない、ということを、私の中の記者が予感している。証拠はまだない。状況証拠だけ。ヴェルナー侯の動き、姉上の態度の変化、深夜の書類。
前世で政治部にいた頃、上司が口癖のように言っていた。「嵐が来る前に、空の色は変わる」。今の宮廷の空気が、まさにそれだ。色が、変わり始めている。
記録に残しておこう。
すべての情報は、いつか武器になる。前世でも、今世でも。
羽根ペンが紙の上を走る。インクの匂い。この匂いだけは、二つの人生に共通している。




