第10話 冬至の王冠
冬至の朝は、静かだった。
目を覚ますと、窓の外が白い。初雪だった。王都アストレアの屋根に薄く積もった雪が、冬至の朝日に照らされて淡い金色に光っている。
今日は即位式だ。
寝台から足を下ろすと、石の床が冷たかった。北の塔の床とは違う冷たさ。あちらは閉じ込められた冷たさで、こちらは自分で選んだ部屋の冷たさ。同じ温度でも、意味が違う。
マリアが入ってきた。腕に深紅の女王衣を抱えている。
「殿下、お支度を」
「ありがとう、マリア」
衣装に袖を通す。重い。絹と金糸の刺繍。肩に、背中に、布の重みがかかる。これが王冠の重さの前触れなのだと、身体が教えている。
裾の刺繍に目が留まった。銀木犀の模様。母上が好きだった花。仕立て師に頼んでおいたものだ。
「母上がお好きだった花です」
マリアに言ったのか、自分に言ったのか、わからなかった。マリアは黙って頷いた。
◇◇◇
即位式は、貴族院の議場で行われた。
幽閉を言い渡された場所と、同じ場所。二十日前の私はここで犯罪者として立っていた。今日は女王として座る。人生というのは。いや、前世と合わせて二つの人生というのは、時に信じがたいほどの皮肉を含む。
四十二名の貴族が起立する中、私は議場の中央を歩いた。深紅の衣装の裾が大理石の床を擦る音だけが響く。
玉座。
木と金の装飾が施された、古い椅子。何日か前に手を置いた、あの椅子。座面の木目を覚えている。指先の記憶が、その手触りを再現する。
腰を下ろした。
椅子の重みが、身体に馴染んでいく。不思議と、しっくりきた。初めて座るはずなのに。たぶん、この椅子を十年間磨いてきたからだろう。磨くことでしか触れられなかった椅子に、ようやく座っている。
王冠が、頭上に掲げられた。
冷たい金属が額に触れる瞬間、何を感じるべきなのかわからなかった。達成感。解放感。覚悟。そのどれもが正しくて、どれもが足りない。
ただ、額の冷たさが、しばらくすると温くなった。体温で。自分の体温で王冠を温めている。それだけのことが、なぜか腑に落ちた。
レオンハルトが来賓席から祝辞を述べている。公式の声。低く、安定した外交の声。だが目だけが違った。目だけが、個人的に笑っていた。あの不器用な人の、精一杯の贈り物。
式の途中で、一瞬だけ、空席に目が行った。
エレノアの席。離宮に発った姉上は、当然ここにはいない。
胸が痛んだ。一瞬だけ。姉上と最後に目が合った、あの議場での瞬間を思い出す。「その玉座はわたくしが磨いたものです」と言った時の、姉上の目。何かを初めて知った者の、あの表情。
席の背もたれに、エレノアの紋章が刻まれていた。金の百合。姉上がこの紋章を選んだのは、母上の庭に百合が咲いていたからだと、幼い頃に聞いたことがある。その記憶が、不意に鮮やかに蘇る。姉上は私に絵本を読んでくれた。まだ二人が、ただの姉妹だった頃。
私はあの人を追い落としたのだ。
正しいことをしたと信じている。でも、正しいことが痛くないわけではない。前世の記者時代にも似た経験がある。汚職を暴く記事を書いた時、告発された側の家族の顔を見てしまった夜。正義と痛みは、別のものだ。
◇◇◇
式が終わり、人々が去った後。
レオンハルトが執務室を訪ねてきた。
「迷わずに来られましたか?」
からかっている。外交官が、女王をからかっている。
「……案内してもらいました」
「知っています。窓から見えました」
また見られていた。
二人の間に、小さな沈黙が落ちた。心地よい沈黙。何かを言わなければならない沈黙ではなく、何も言わなくていい沈黙。
「来週の条約更新会議」
「はい」
「楽しみにしています」
レオンハルトの指が、外套の留め具を弄っている。緊張すると金属に触れる癖があるのだと、今初めて気づいた。
私は微笑んだ。微笑むことには慣れている。でも今の微笑みは、黒子時代のそれとは違うものだった。
◇◇◇
夜。
執務室の灯りの下で、私は一枚の便箋に向かっていた。
姉上への手紙。
何を書けばいいのかわからない。「お元気ですか」は白々しい。「許してください」は嘘になる。「恨んでいません」は半分しか本当ではない。
ペンを持ったまま、便箋の上で手が止まる。
前世で、絶縁した家族に手紙を書こうとしたことがある。あの時も、書けなかった。言葉にすると嘘になるか、重すぎるか、軽すぎるか。どの言葉も、ちょうどよくない。
インクが乾いていく。
十分、二十分。便箋は白いまま。
やがて、一行だけ書いた。
「冬薔薇が咲きました。姉上のお好きだった花です」
嘘ではない。窓の外の庭園で、冬薔薇が確かに咲いている。雪の中で、赤い花弁が凍えるように開いている。
姉上が冬薔薇を好きだったかどうか、実は確信がない。でも、母上の庭で、姉上がこの花の前で立ち止まっていたのを覚えている。幼い頃の記憶。姉上がまだ私に読み聞かせをしてくれていた頃。
封をして、マリアに託した。届くかどうかはわからない。届いたとして、読まれるかもわからない。
でも、書いた。それだけのことだ。
◇◇◇
窓辺に立つ。
冬至の夜空。星が多い。北の塔の格子窓から見た星空を思い出す。あの夜、ヴェスター暦の冬至祭の星の配置を見上げた。
今夜、同じ星が見えている。だが見える場所が違う。鉄格子の向こうではなく、女王の執務室の窓から。
手のひらを窓ガラスに当てた。冷たい。北の塔の鉄格子の冷たさとは違う、薄い硝子の冷たさ。
この先にあるのは、別の種類の孤独だろう。王冠をかぶった者の孤独。前世で取材した政治家たちの目を思い出す。あの人たちの目の奥にあった、疲労と孤独と責任の混じった色。
でも、完全な孤独ではない。
マリアがいる。ガルシア伯がいる。翻訳班の部下たちがいる。
そして、来週、条約更新会議でまたあの不器用な外交官に会える。
手のひらが温かい。
冬至の夜に、新しいインクの瓶を開けた。
明日から、私の名前で書く。
インクの匂い。二つの人生を通して、最も馴染み深い匂い。前世ではボールペンのインク。今世では羊皮紙用の黒インク。匂いは違うのに、書くときの指の感覚は同じだ。
黒子はもういない。
ここにいるのは、女王セレナ・エストレア。冬至の夜に即位した、冬薔薇の女王。
便箋に一行だけ書いた手紙が、今頃、離宮に向かう伝令の手の中にある。届くだろうか。読まれるだろうか。返事は来るだろうか。
わからない。でも、書いた。書くことだけは、やめない。それが、二つの人生で私が学んだ、唯一の確かなことだから。




