第1話 黒子の王女
条約草案の最後の一文を書き終えたとき、インクはもう残り少なかった。
瓶を傾けると、底にわずかに残った黒がゆるりと動く。この一瓶で、隣国との通商条約の修正案をまるまる一本書き上げた計算になる。
……我ながら、よく書いたものだと思う。
私は羽根ペンを置き、指先についたインクの染みを眺めた。爪の際まで黒く染まっている。前世で記者をしていた頃も、指先はいつもこんなふうだった。あの頃はキーボードのインクではなく、取材メモのボールペンだったけれど。
――いえ、そうではなく。
今は、そんなことを考えている場合ではない。
羊皮紙を丁寧に巻き、封蝋で閉じる。蝋の焼ける匂いが鼻先をかすめた。明日の貴族院で姉上がこれを読み上げる。私が書いたものを、私の名前を消して。
いつものことだ。
◇◇◇
貴族院の議場は、秋の朝日が高窓から差し込んで、大理石の床に長い影を落としていた。
円形の議場。中央の演壇に立つ姉上――第一王女エレノアの金髪が、逆光に透けて淡い光をまとっている。私は議場の端、来賓席の隅に座っていた。この位置からだと、エレノア殿下の横顔がちょうど見える。
「――以上が、ヴェスター王国との通商条約修正案です」
姉上の声は、議場の隅まで届く。演説の才能だけは本物だった。声の抑揚、間の取り方、聴衆の目を捉えて離さない視線の配り方。前世で何人もの政治家を取材したが、あれほど自然に人を惹きつける話し手は稀だ。
「私が各条項を精査し、隣国の事情を踏まえて修正を加えました」
右手の人差し指が、膝の上で小さく机を叩く仕草をする。無意識の癖。前世のキーボードを叩く指が、今世でも止まらない。
私が書いた。夜通しかけて、ヴェスター語の原文と突き合わせて、第七条の関税率を0.3パーセント下げる根拠を三十行にわたって論証した。あの羊皮紙には私のペンだこの跡すら残っているはずだ。
だが議場にそれを知る者はいない。いや、正確に言えば――知っていても口にしない者が数人いるだけだ。
拍手が起きる。私も手を合わせた。音が、少し遠い。
前世の新聞社でも似たことがあった。深夜まで書いた記事に、先輩記者のバイラインが載る。「お前はまだ若いから」と言われて、それで終わり。あの時は悔しかった。今は――なんというか、悔しさの形が違う。もっと鈍くて、もっと深いところにある何か。
議場の片隅、外国使節の席に黒い外套の人影が見えた。銀の留め具。ヴェスター王国の紋章。何かを書き留めているらしく、視線は手元に落ちている。ただそれだけ確認して、私は視線を戻した。
◇◇◇
議場を出ると、廊下は秋の冷えた空気に満ちていた。磨かれた石の床を歩くたび、靴音が天井の高い回廊に反響する。
「セレナ殿下」
背後からの声に振り返る。ヴェルナー侯爵が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。五十を過ぎた、白髪交じりの老臣。この人の笑顔はいつも同じ温度で、だからこそ信用できない。
「本日の条約案、殿下もお聞きになりましたか。エレノア殿下の見事なお仕事でしたな」
私は微笑んだ。微笑むことには慣れている。
「ええ、姉上のお力です」
「殿下はよくお分かりでいらっしゃる」
ヴェルナー侯は一歩近づき、声を落とした。廊下の先を歩く官吏たちが遠ざかるのを待ってから。
「黒子としてのお役目を弁えていらっしゃるのは、この宮廷で殿下だけです。今後ともそのままで」
侮辱ですらない、と思った。この人にとって、私は侮辱する価値すらない存在なのだ。ただの道具。便利な羽根ペン。インクが尽きれば取り替えられる。
「近々、殿下にはもっと静かな場所をご用意する予定です。父王陛下のご病状を鑑みて、王宮の雑事からお離しするのが望ましいかと」
奥歯の裏側が、じんと痺れた。
静かな場所。その言葉の裏に何があるのか、記者の勘が告げている。だが、ここで問い詰めても意味はない。
「……ご配慮に感謝いたします、侯爵」
それだけ言って、私は背を向けた。靴音が廊下に残る。一歩ごとに、喉の詰まりが薄れていく。
怒っているのかと聞かれたら、たぶん、違う。
というより、怒る権利があるのかどうか、わからないのだ。自分から黒子を引き受けたのは事実だから。母上が亡くなったとき、十二歳の私が「姉上を支えます」と言ったのは、嘘ではなかったから。
ただ、十年も経つと、支えることと消えることの境界が、わからなくなる。
◇◇◇
執務室に戻ると、机の上に外交便の束が置かれていた。隣国ヴェスターからの定例報告。封筒の角に、見覚えのある硬い筆跡がある。
レオンハルト殿下――ヴェスター王国の外交特使。五年前の条約交渉で初めて会った人。あの時、私が書いた条約案を、相手国の代表として初めて「よくできている」と評価した外国人。
封を切る。紙の端が指先にかすかに引っかかる。ヴェスター産の紙は、エストレアのものより薄くて丈夫だ。繊維の走り方が違う。前世で工芸品の特集を組んだとき、紙の製法について取材したことがあった。あの記事は結局ボツになったけれど、紙の違いがわかる目だけは残った。
中身は定例の外交報告書で、特別なことは書かれていない。通商関税の動向、国境付近の通行量の変化、些末な外交儀礼の確認事項。
ただ、文末に一行。
「次回の条約更新につき、セレナ殿下と直接協議したい旨、申し添えます」
……セレナ殿下と。姉上ではなく。
私は報告書を畳み、引き出しの奥にしまった。この一行が誰かの目に触れることは、あってはならない。
窓の外、王都アストレアの空は高く澄んでいる。秋の陽が傾き始め、執務室の影が長く伸びていた。中庭の木の葉がかすかに色づいている。銀木犀の香りはもう終わりかけだ。冬が近い。
インク壺を引き寄せる。新しい瓶に取り替えなければ。明日も書くものがある。明後日も。その先も。
私はいつまで、この椅子を磨き続けるのだろう。
いや。
そう思うこと自体が、たぶん、贅沢なのだ。前世では、誰かの椅子を磨く機会すらなく終わったのだから。デスクの上で突っ伏して、それきり目が覚めなかった三十二年間。
ペンを取る。新しいインクが、紙の繊維に沁みていく。
この仕事を「奪われた」と思うか、「託された」と思うかは、きっと私次第で。
まだ、決められずにいる。




