君だけが理解していない真実があるのではないか?
うなされた。
夢でうなされた。
何があったかは覚えていない。
しかし、恐怖だけが残った。
寝巻きのスウェットはずいぶん湿っていた。
6日目
「君だけが理解していない真実があるのではないか?」
というメッセージが届く。
昨日同様これ以外には、何もない。
ただこれだけのメッセージ。
今回のメッセージは……、
なんだろう。
とても不気味に感じた。
時計を見る。午前6時30分。
いつものように、
父と母は朝ご飯を食べている。
今日もテレビがついていない。
「おはよう」
と俺が言うと、
二人ともニコッと笑った。
「あのさ。父さんと母さんは知ってるけど、俺は知らないことってある」
と俺は言った。
「そりゃあるさ。お前が生まれる前のことなんて、お前は知らないだろう」
と父さんは言った。
「そうだね」
と俺は言った。
「でもな。それは俺も同じだ。お前が普段何をしているかとか、まったく知らん。ガソリンスタンドで働いてる。窓ガラス拭いてる。ガソリンを入れてる。灰皿を交換している。オイル交換も洗車もできる。それぐらいだ」
と父さんは言った。
「結構知ってるね」
と俺は言った。
「バカ。こんなの知っているうちに入らないわ。もっと色々あるだろ。人間関係とかな。昼飯は何食ってるとか。そういうのがないと理解はできないわ」
と父さんは言った。
俺は納豆をかき混ぜながら、考えた。
「君だけが理解していない真実があるのではないか?」
とは何だろう。
「あのさ。俺だけが理解していない真実があるとしたら、何だろう?」
と俺は言った。
二人とも考え込む。
「わかんねぇな。そもそもお前が理解している真実が、どの程度あるかもわからないし、そんなことわかるわけがねぇだろう」
と父さんは言った。
母さんもうなづいている。
「そうか……、たしかにそうだね。
俺も逆に質問されたら、難しいわ」
と俺は言った。
「だろ。あんまり面倒なこと考えるな。いいか。飯食って、仕事して、寝る。人間ってのは、それで幸せだ」
と父さんは言った。
父さんの言葉は真理をついていた。
まったくもってその通りだ。
しかし、
心には波紋一つ起きていない。
これほどまでに空虚な瞬間ははじめてだったかもしれない。
パスカルという人物は、
『人間は考える葦である』と言った。
意味的には、人は葦という弱々しい植物のように脆弱であるが、考えることで偉大になったというような意味らしい。
パスカル的に言えば、父の今の状況は考えることを放棄した葦。
ただの弱々しい脆弱なだけの存在ではないのか?
しかし……
ちょっと待てよ。
座禅を組む時、考えるなと。
思考が入ってきても、ただ観察して流すように勧められた。
パスカルは考えることを勧め、
禅と父さんは考えないことを勧める。
いや少し待て……、
禅には問答というものがある。
問いに対して、答えを出す、質問形式の修行のようなものだ。
ということは、禅は考えることを否定はしていない。
では何を否定している。
あぁそうか……。
雑念か。
雑念はノイズのようなもの。
ラジオにノイズが入れば、聞きづらい。
これは本当はクリアに見えるはずの世界も、
ノイズが入れば見えづらいということなのではないか?
ではノイズとは……、
そうか、
焦りとか、執着とか……、
まさにそういうのだ。
うん。本当にそうか?
たしかに、焦りや、執着は悪いものとして扱われる。
しかし、焦りがなければ行動しない。
執着がなければ行動はしない。
つまり焦りも執着も行動させるエネルギーのような役割は果たす。
行動させるエネルギー?
そうか……、
焦りも執着も行動させるエネルギーの状態でとどまれば良し。
その状況を超して、精神を侵食しだせば悪し。
ということなのではないか?
そうか……。
全てはエネルギーをどう使うかなのではないだろうか。
人生におけるレールでさえ……。
あらかじめ、レールの敷かれた人生は、
レールを敷く側のエゴでもあるが、
同時に優しさでもあり、
同時に傲慢さでもある。
レールというものは、表面上安全に見えて、
時間という残酷な経過年数という変数を加えた時、
残酷なトラップにもなりうる。
俺の父さんはレールを敷かなかった。
自分の人生にYesという感覚がなかったのだろう。
代わりに、父の人生というルートには進ませなかった。
ある意味、わかりやすい逃げ道を絶たれてしまったのだ。
レールを敷く、レールを敷かない。
どちらの人生も残酷だ。
片方は強制。
片方は見捨てられ、退路を断たれる。
そんな錯覚を子に与えるかもしれない。
つまり、そもそもレールなど存在しないということなのだろう。
レールに乗り、サラリーマンという人生の安全域を謳歌していた者は、
不祥事という落雷を受け、リストラされ路頭に迷う。
レールの上でさえ、運ゲーだ。
そもそもレールという観念さえも、幻想なのだろう。
雑に書かれた仕様書のようなものだ。
しかし……、
「君だけが理解していない真実があるのではないか?」
答えが出せるとしたら『わからない』だ。
おや……、ちょっと待てよ。
『わからない』
ということは世界には多い。
いや逆説的に言うと、わかっていることより、わかっていないことのほうが多い。
しかし、
俺はわからないことを許していたか?
もしかすると、理解していない真実は、わからないへの寛容な態度なのかもしれない。
俺はスタンドに向かう。
いつものようにスタンドの自動販売機で缶コーヒーを買う。
何も変わらない日常。
しかし、座禅の究極系が日々の仕事だという認識を持つと、少し明るく見えた。
そういえば、禅寺では、日々の雑務を作務といい、修行の一環だと言っていたな。
仕事をパーツだと思う人生、
仕事を修行の一環だと思う人生、
仕事を悟りの一形態だと思う人生、
全然違う気がする。
少なくとも、俺は仕事を悟りの一形態だと思えるようになれば、救われる気がする。




