その痛みは本物か?
3日目
「その痛みは本物か?」
というメッセージが届く。
昨日同様これ以外には、何もない。
ただこれだけのメッセージ。
今日は、
さらに自己を探求できる喜びが強くなった……。
俺は考えた。
痛みとは何か?
父は
「よく腰が痛い」
と言っている。
あの腰痛が偽物であれば、
どんなに父はうれしいだろうか。
時計を見る午前6時30分。
いつものように、
父と母は朝ご飯を食べている。
ただ今日はテレビがついていない。
「珍しいね。テレビがついていないなんて」
と俺は言った。
「なんかな。親方が言ってたんだ。脳疲労ってのがあるらしく、ひどくなると精神的に病むらしい。朝ってのは、一日の始まりだろ。そんな時に疲れるようなニュースを見たのでは、精神的に良くないってな。だからうちもテレビを消すことにしたんだ」
と父は言った。
「ニュースを知らなくても平気なの?」
と俺は言った。
「親方が言うには、お前ら肉体労働者だろ。政府がどう、物価がどうって言ったって、なんにもすることはできねぇ。だったら、ニュースで聞くだけ、ストレスかかって損なんじゃねぇかってな」
と父は言った。
「母さんは気にならないの?」
と俺は言った。
「私も、特にニュースの話とか、近所でもしないし、なにも使わないからね。それよりストレスはシワになるらしいから、アンチエイジングのためにも、見ない事にしたわ」
と母は言った。
「そっか。じゃあ俺もそうしようかな」
と俺は言った。
「お前もな。ガソリンスタンドだしな。ニュース見ても関係ないもんな」
と父は言った。
俺は思い出した。
「その痛みは本物か?」
俺は考え始めた。
ニュースを見て、心が痛んだことはなかったかと。
思い出せないが、沢山あることだけはわかった。
あの痛みは本物だったのだろうか?
恐らく、本当に心が痛んだんだろう。
しかし……、
ニュースを見る必要がないという前提に立つならば、
俺は、その痛みを引き受ける必要はなかったと言える。
なぜ。
ニュースを見ないといけない。
痛みを引き受けないといけないと思い込んでいたのだろう。
あぁ学校教育の影響もあるのかもしれない。
入試の際に、社説を読み込んでいると、有利だと聞き、
学生時代はよく社説を読んだ。
実際に小論文は書けるようにはなったが、
ちゃんと自分で考えていたかというと疑問だ。
基本的には新聞社の意見のカバー。
それだけだった。
今はどうだ。
自分の考えがあるかもしれない。
これも診断メールのお陰だ。
……
俺はいつものようにスタンドに行く。
あれから会長さんは来なくなった。
マズい事でも聞いたのだろうか?
その会長さんの会社の人が来た。
「会長さんお元気ですか?」
と俺は尋ねた。
「それが……、実は倒れられて、今入院されてるんですよ」
と会長さんの会社の人は言った。
俺は驚いた。
ちょうどあの話をしたあと、
すぐに倒れられたみたいだった。
少し考えた。
やはりマズい事を聞いてしまったのか。
いや。
そんな事はないだろう。
普通の会話と言えば、普通の会話だ。
おかしなことはない……、
かな。
俺は昼ご飯を食いながら、
メッセージを反芻する。
「その痛みは本物か?」
昼ご飯は毎日同じカップ焼きそばだ。
近くのディスカウントストアでまとめ買いしている。
30年近く、同じ銘柄のカップ焼きそばを食っている。
このカップ焼きそばに、マヨネーズをかけて食べるのが俺の定番だ。
朝は鮭に納豆とご飯、
昼はカップ焼きそば、
夜はサバの煮つけと味噌汁とご飯。
これしか食ってない。
母の実家が魚屋で、父も母も、肉を食うのは、敵を潤すみたいで好かんと。
このメニューになった。
「その痛みは本物か?」
この言葉は恐ろしく深い。
俺は痛みについて考え始めた。
物理的な痛み。
弁慶の泣き所を打てば痛い。
指を挟めば痛い。
これは痛覚だ。
これは本物だろう。
ちょっと待て。
「その痛みは本物か?」
という問いは、
本物の痛みと、偽の痛みが混じっているということなのではないのか?
たしか、偽物の痛みというのがあると聞いたことがある。
腕の治療をして、傷も完治しているはずなのに、そこが痛く感じるとか。
切断し、もう腕がないのに痛く感じる。
そんな事があると聞いた。
これなどは、偽の痛みなのではないだろうか?
痛みというのは、いろいろある。その痛みの中に、原因がない、偽の痛みが混じったとしても、
俺は気が付けない。
そういうことはあるだろう。
ふたたび俺は、社会的な痛みについて考え始めた。
例えば、
悲しいニュースを見る。
悲しい気持ちになる。
これはきっと正常な反応だろう。
でも、
「学校教育は真実を教えているのか?」
で考えたように、
歴史が為政者によって作られたとするならば、
ニュースさえも作られたものである可能性がある。
悲しいニュースが、なにかの目的で作られ、それにより、
意図的に社会的な痛みを与えられているとしたら、
どうなのだろうか?
たしか……
マーケティング的な観点からすると、
不幸なニュースを見ると、消費が活発化するから、
ニュースのあとのCMは効率が良いと聞いたことがある。
あまりにも難しい。
痛みは痛みだし、
こんな事を考える必要があるのだろうか。
だんだんと息苦しくなってきた。
これまで
「学校教育は真実を教えているのか?」
「君は本当に守られているのか?」
「その痛みは本物か?」
という3つのメッセージを受け取った。
俺は今までになく、世界を客観視できているような気分になっている。
しかし、同時に……、
世界が恐ろしく空虚にも感じるし、
世界が恐ろしく利己的であるようにも感じる。
この世界に愛などあるのだろうか?
という疑問にもぶつかる。
痛みとは何なんだろう。
ふと口のなかに、カップ焼きそばの味が戻る。
焼きそばのコショウの残骸が舌を刺激する。
そうか……
コショウも刺激。
つまり痛みなのか。
痛みが快楽に直結することもある。
俺はそのことを初めて理解した。




