君は生きているのか?
俺は貰ったチップを信用金庫に入れた。
35歳から、
臨時収入は貯金する習慣を始めた。
将来の事を考えているわけではない。
ただ……、
欲しいものがなくなったのだ。
誰かが言っていた。
人間は欲望がなくなったら終わりだと。
俺は終わっているのか?
食欲と睡眠欲はある。
あぁ。
でも自分を知りたい欲はある。
あと……、
世界の法則というか、
世界の深淵を覗いてみたいという欲はある。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
ニーチェという人物が言ったそうだ。
ミイラ取りがミイラになる、
のと同じような意味らしい。
俺は今、
きっと……、
深淵を覗いている。
では、
俺は今、
深淵に覗かれている。
俺は深淵に飲み込まれるのか?
そう考えた時、
ぞくぞくする感覚に陥った。
あぁ……、
このこちら側と彼岸の境界線上。
そんな所の住人になりたいのか……。
かすかに俺はそう感じた。
スマホの通知が鳴る。
ほとんど全ての通知は切ったが、
メッセージの通知だけは残している。
「君は生きているのか?」
というメッセージが届く。
昨日同様、これ以外には何もない。
ただこれだけのメッセージ。
(どくん……)
心臓の鼓動が一瞬激しくなる。
なんだ……、
この感覚は?
俺はふたたびメッセージを見る。
「君は生きているのか?」
思わず、スマホを手から滑らせる。
脳内におびただしい数の数字が羅列される。
なんだ……、
このイメージは。
3分ほどして、俺は冷静さを取り戻す。
時計を見ると午前6時30分。
いつものように、
父と母は朝ご飯を食べている。
今日もテレビがついていない。
「おはよう」
と俺が言うと、
二人ともニコッと笑った。
俺はいつものように、食卓に座る。
朝ごはんは、
いつも同じ。
ベーコンエッグ、
コーヒー、
4枚切りのトースト。
商社に勤める父は朝が早い。
母は明日から始まるピアノのリサイタルの準備で大変だ。
「父さん。あのブラジルのプロジェクトはどうなったの?」
と俺は言った。
「あぁ。一時破綻しかけた奴か……、あれはな。政治家のコネを使って処理した」
と父は言った。
「という事は上手くいったって事?」
と俺は言った。
「もちろんだ。俺を誰だと思っている。それより、お前の油田開発の件、頓挫しそうになっていたのではないのか?」
と父は言った。
「はは。俺も政治家のコネを使って処理したよ」
と俺は言った。
急に頭が締め付けられる。
俺はトイレに駆け込む。
そして吐いた。
口の中からはコールタールのような黒い液体が多量に出た。
……
「おい。おい。大丈夫か?」
と父さんは言った。
俺は口をトイレットペーパーで拭き、トイレを流す。
「大丈夫」
と俺は言い、トイレから出た。
「どうしたの?納豆腐ってた?」
と母さんは言った。
「まぁ。納豆なんてもんは、初めから腐ってるようなもんだしな」
と父さんは言った。
「いや……、本当に大丈夫。食事が原因じゃないと思うよ」
と俺は言った。
しかし、あの黒い液体は何だったんだろう。
「おかゆにしようか?」
と母さんは言った。
「あぁ、それがいい。そうしてもらえ」
と父さんは言った。
「いや。もう今日はご飯はいいや。お茶だけ飲むよ」
と俺は言った。
「じゃあ、お茶入れるわね」
と母さんは言った。
……
俺はスタンドに向かう。
「君は生きているのか?」
というメッセージを心の中で反芻する。
俺は生きているのだろうか?
明確にYesとも、Noとも言えない事に愕然とした。
生きているというのは、
何なんだろう。
深淵に近い。
つまり、
彼岸に近い。
うん……?
深淵とは彼岸のことなのか?
誰がそう言った。
なぜそう思った。
わからない。
しかし、
彼岸であれば、生きているのか、死んでいるのか、わからないのも当然だ。
しかし、
彼岸の人間は死んでいるとは、限らないのではないだろうか。
……
「先輩」
と車から声をかける女性がいた。
この子はカラザ……。
「君はカラザさん?」
と俺は言った。
「え~名前覚えてくれてたんだ。うれしい」
とカラザは笑った。
「ひさしぶりだね。今日はどうしたの?」
と俺は言った。
「どうしたのって?ここガソリンスタンドでしょ」
とカラザは言った。
「そうだよね。どうします?」
と俺は言った。
「じゃあ、ガソリン満タンと、オイル交換もお願いできますか」
とカラザは言った。
「ありがとうございます」
と俺は言った。
それから俺とカラザは、しばらくおしゃべりをした。
ずいぶんキレイに、
そして大人っぽくなっていた。
「すみません。突然辞めちゃったりして」
とカラザは言った。
「別に大丈夫だけど、驚いたよ」
と俺は言った。
「実は、おじいちゃんが急に倒れちゃって。そこからバタバタして……」
とカラザは言った。
「今はどうしてるの?」
と俺は言った。
「おじいちゃんが亡くなって、今は養鶏場の経営者です」
とカラザは言った。
「えっ、すごいじゃん。女社長」
と俺は言った。
「いえいえ、そんなたいしたことじゃないんですよ。跡を継いだだけですから」
とカラザは言った。
「いや。すごいよ。カッコいい」
と俺は言った。
「本当ですか?」
とカラザは言った。
「本当本当」
と俺は言った。
「うれしい。じゃあ、このガススタ、うちの養鶏場のご用達にしますね」
とカラザは言った。
「それはそれは、ありがとうございます」
と俺は笑った。
そしてカラザは帰っていった。
……
俺は再び、
「君は生きているのか?」
というメッセージを心の中で反芻する。
先ほどとは、少し感じ方が変わった。
生きているのか、死んでいるのかは、
まだわからない。
虚無であるのは、確かで……。
しかし、
その虚無の中に、微弱な粒子のような色があった。
その色がなになのかはわからない。
文字として、
文字データとしては、不確かな存在。
しかし、
ある事は認識できる。
恐らく、デジタルデータにした時には、ノイズとして消される存在。
そんな、
極めてあやふやなものが、虚無の中に、存在した。
たぶん……、
錯覚でなければ。




