83. 夫婦交換 境界線の向こうに
『境界線の向こうに』
リナさんの潤んだ瞳が、俺を射抜く。彼女の頬はほんのり赤く染まり、少し開いた唇が艶めかしい。俺の中に、ずっと眠っていた、純粋な「男」としての欲求が高まってくるのを感じた。
俺はリナさんの細い肩を引き寄せ、その唇に自分の唇を重ねていた。
まさか俺が、親友の奥さんと肌を重ねることになり、そして俺の妻が親友の腕の中で夜を過ごすことになるなんて、あの頃の俺は想像すらしていなかった。すべては、親友であるタツヤの、あの切羽詰まった一言から始まったんだ。
でも、その言葉がタツヤの口から飛び出すほんの数時間前まで、俺たちはいつもと同じ、笑いに満ちた時間を過ごしていた。
週末、俺たち夫婦とタツヤ夫婦はキャンプを楽しんでいた。
昼間は、女性陣はきのこ狩り、男衆は川で釣りを楽しみ(成果はなかったが)、そして夕暮れ時、パチパチと音を立てて燃える焚き火を囲み、夕食の準備に取り掛かっていた。
「よーし、今日は俺特製の『ワイルドBBQ串』を振る舞うぜ!」
タツヤがクーラーボックスから大量の肉やら野菜やら、そしてなぜか巨大なマシュマロの袋を取り出しながら高らかに宣言した。彼が時々突拍子もない料理を生み出すのはいつものことだ。
「出たわね、タツヤの『ワイルド』シリーズ。前回はワイルド過ぎて炭しか残らなかったじゃない」
すかさずリナさんがツッコミを入れる。彼女の的確な指摘に、俺とミサキは思わず吹き出してしまった。
「失敬な!あれは芸術的な燻製だ!…まあ、今日は焦がさないように最新の注意を払うさ。見てろよ、ミサキちゃんもケンタも、腰抜かすほど美味い串作ってやっから!」
タツヤは自信満々に胸を叩き、慣れない手つきで肉と野菜、そして問題のマシュマロを串に刺し始めた。その姿は真剣そのものなのだが、串に刺された具材のバランスは明らかにおかしく、特にマシュマロの存在感が異様だった。
「タツヤさん、そのマシュマロ、お肉と一緒に焼くんですか…?」
ミサキが恐る恐る尋ねると、タツヤは「これがミソなんだよ、ミサキちゃん!甘じょっぱさが肉の旨味を最大限に引き出すんだ!」と力説している。俺は隣で、「それ、本当に大丈夫か…?」と呟きながらも、内心ではそのカオスな串焼きの完成(あるいは失敗)を心待ちにしていた。
そして、タツヤがその自信作を焚き火にかざした瞬間、事件は起きた。マシュマロが勢いよく燃え上がり、まるで松明のように炎を上げたのだ。
「うわぁぁぁ!燃えてる!俺の芸術がぁぁ!」
タツヤが慌てふためいて串を振り回すと、今度は隣の野菜串に引火。あっという間に焚き火の周りは、香ばしいやら焦げ臭いやら、なんとも言えない匂いと煙に包まれた。
「ちょっとタツヤ!危ないわよ!」
「あははは!タツヤさん、火事ですよー!」
「おいおい、キャンプファイヤーにはまだ早いだろ!」
リナさんは呆れながらも笑いを堪えきれない様子で、ミサキは手を叩いてゲラゲラ笑い、俺も腹を抱えて涙が出るほど笑った。タツヤは顔中ススだらけになりながらも、「これは…想定外の火力調整だったな…」とかなんとか言い訳していて、それがまた俺たちの笑いを誘った。
結局、その『ワイルドBBQ串』はほとんどが炭と化したが、残った数少ない食べられる部分(主に俺が焼いた普通の肉)や、持ってきていたサンドイッチを分け合いながら、俺たちは腹の底から笑い続けた。赤く透明な夕焼け空の下、焚き火の暖かさと、気のおけない仲間たちとの他愛ない時間。この瞬間が永遠に続けばいいのに、なんてことをぼんやり考えていた。
あの時の俺は、この数時間後に、タツヤからあんな衝撃的な言葉を聞くことになるなんて、微塵も思っていなかったんだ。
「なあ、ケンタ。頼むよ、もう限界なんだ」
親友のタツヤが、いつになく真剣な顔で俺に頭を下げてきたのは、そんな笑いに満ちた宴が一段落し、夜の帳が下り始めた頃だった。焚き火のパチパチという音だけが、やけに大きく聞こえる。
「限界って…何がだよ?」
俺は戸惑いながら聞き返した。さっきまでの陽気な雰囲気が嘘のように、タツヤの表情は硬く、その目には深い悩みの色が浮かんでいた。隣のテントでは、俺の妻のミサキと、タツヤの奥さんのリナさんが、まだ楽しそうに談笑している声が聞こえてくる。この平和な光景からは想像もつかないような、タツヤの切羽詰まった表情だった。
「…ウチの奥さん、リナと…交換してくれないか?」
「はあ? 交換って…何をだよ」
まさか、とは思ったが、タツヤの目は真剣だった。
「だから、奥さんを…一週間だけでいい。お互いの奥さんを交換して生活してみるってのはどうだ?」
言葉を失った。夫婦交換。そんな言葉はアダルトビデオか何かでしか聞いたことがなかった。現実の世界で、しかも親友の口からそんな提案が出るとは夢にも思わなかった。
「お前、正気か? 何言ってんだよ」
「正気だよ。めちゃくちゃ悩んださ。でも、もうこうするしか思いつかないんだ」タツヤは頭を抱えた。「リナとな、最近全然ダメなんだ。特に、子供のことでもめてから、ずっとギクシャクしてる。あいつ、美人だし、気立ても良い。それは分かってる。でも、なんて言うか…もう、お互いストレスが溜まりすぎてて、夜も全然…」
タツヤの言葉は、俺の胸にも突き刺さった。実は、俺たち夫婦も似たような状況だったからだ。ミサキとは恋愛結婚で、結婚して五年。最初の数年は毎日のように笑い合って、週末はどこへ出かけるか、なんて話で盛り上がっていた。しかし、ここ一年ほど、子供がなかなかできないことが、俺たちの間に見えない壁を作っていた。ミサキは口に出してこそ言わないが、焦りを感じているのは明らかだったし、俺も知らず知らずのうちにプレッシャーを感じていた。「子作り」が義務のようになってしまい、かつてのような自然な触れ合いが減っていた。ケンカこそしないものの、家の中には常に重苦しい空気が漂っている。タツヤの言う「ストレス」は痛いほど理解できた。
「…お前んところも、子供のことか…」
俺がぽつりと言うと、タツヤはこくりと頷いた。
「ああ。リナも参っちまっててさ。俺に当たってくることも多くて。このままじゃ、夫婦関係が破綻するのも時間の問題な気がするんだ。なあ、ケンタ。お前も、ミサキちゃんとの関係、少しマンネリ化してたりしないか?」
図星だった。だが、だからといって夫婦交換なんて、あまりにも突飛な提案だ。
「だとしても、そんなこと…」
「もちろん、体の関係は無しだ! 約束する。ただ、環境を変えて、少しリフレッシュしたいだけなんだ。リナも、ケンタなら安心だって言ってたし…お前、優しいから、リナの愚痴とか聞いてやってくれないか?」
タツヤの必死な目が、俺の罪悪感を刺激する。確かに、このままお互いがそれぞれの家庭でストレスを溜め続けるよりは、何か変化が必要なのかもしれない。それに、リナさんの愚痴を聞くくらいなら…。
「…分かったよ。リナさんの話を聞くくらいなら、別に構わないけどな。でも、俺からミサキにそんなこと言えるわけないだろ。気まずすぎる」
「そこは大丈夫だ。リナからミサキちゃんに上手く話してみるって言ってる。あいつら、女同士も仲良いしな」
タツヤの言葉通り、数日後、ミサキから「ねえ、タツヤさんたちのことなんだけど…」と切り出された。どうやらリナさんから、現状の苦しさや、気分転換としての夫婦交換の提案があったらしい。もちろん、「体の関係は絶対になし」という条件付きで。
意外なことに、ミサキはそれほど否定的ではなかった。むしろ、少し興味があるような素振りさえ見せた。
「…リナさんも、すごく悩んでるみたい。それに、私たちも少し、今の状況を変えるきっかけが必要なのかもしれないって、ちょっと思ったの」
ミサキの目に、わずかな期待の色が浮かんでいるように見えた。それはきっと、俺と同じように、現状への閉塞感を打破したいという気持ちの表れなのだろう。こうして、俺たちは一週間の「夫婦交換」を試してみることになった。
交換初日。タツヤとミサキが俺たちの家で、俺とリナさんがタツヤたちの家で過ごすことになった。俺はリナさんの運転する車で、タツヤたちのマンションへ向かった。車内の空気は、やはりどこかぎこちない。
「ケンタさん、本当にごめんなさいね、こんな突拍子もないことに付き合わせちゃって」
リナさんが申し訳なさそうに言った。普段は明るくハキハキした印象のリナさんだが、今日はどこか影がある。
「いや、タツヤも相当悩んでたみたいだし…。それに、俺たちもちょっと、ね」
「…ミサキちゃんも、少し疲れてるように見えたわ。やっぱり、子供のことって、私たちにとっては大きいのよね」
リナさんの家に着くと、そこはモデルルームのように綺麗に片付いていた。しかし、どこか生活感が希薄で、それがかえって彼女たちの今の心の状態を表しているようにも感じられた。
最初の数日は、本当にぎこちないものだった。お互いに気を遣い、当たり障りのない会話を交わすだけ。食事も別々に摂ることが多かった。俺はリビングで、リナさんは自室で。まるで下宿人同士のようだ。
だが、三日目の夜だった。俺がリビングで缶ビールを飲んでいると、リナさんが風呂上がりらしいラフな格好で現れた。少し濡れた髪からは、シャンプーの良い香りが漂ってくる。
「ケンタさん、少し、お話ししませんか?」
その誘いを断る理由はなかった。二人でソファに並んで座り、ぽつりぽつりと話し始めた。最初はタツヤの愚痴が多かったが、次第に彼女自身の不安や、女性としての焦り、そして俺たち夫婦と同じように、子供ができないことへの深い悲しみを吐露するようになった。
「…タツヤは優しいんです。でも、時々、その優しさが逆にプレッシャーになるというか…私が期待に応えられていないって、責められているような気持ちになるんです」
リナさんの目には涙が浮かんでいた。俺はただ、黙って頷きながら彼女の話を聞いた。普段、気丈に振る舞っている彼女の弱い部分に触れ、何とかしてあげたいという気持ちが自然と湧いてきた。俺は、ミサキも同じような気持ちを抱えているのかもしれない、と気づかされた。
その夜から、俺とリナさんの距離は少しずつ縮まっていった。一緒に食事をするようになり、くだらないテレビ番組を見て笑い合うこともあった。リナさんは、俺が思っていた以上に魅力的で、家庭的な女性だった。彼女の作る料理は美味しかったし、何より、彼女と過ごす時間は不思議と心が安らいだ。それは、お互いが「子供を作らなければならない」というプレッシャーから解放されていたからかもしれない。
そして、交換生活も残り二日となった金曜の夜。その日は、リナさんが腕を振るって手料理をたくさん作ってくれた。ワインも少し飲み、いい気分になっていた。食後、二人でソファに座って映画を観ていた時だった。サスペンス映画の、緊張感が高まるシーン。俺は無意識のうちに、隣に座るリナさんの手に自分の手を重ねていた。
リナさんは、びくりと肩を震わせたが、俺の手を振り払うことはなかった。それどころか、そっと指を絡めてきた。映画の音はもう耳に入ってこない。互いの視線が絡み合い、部屋の空気が一気に熱を帯びていくのを感じた。
「ケンタさん…」
リナさんの潤んだ瞳が、俺を射抜く。彼女の頬はほんのり赤く染まり、少し開いた唇が艶めかしい。俺の中に、ずっと眠っていた何かが、むくりと頭をもたげるのを感じた。それは、ミサキとの間では久しく感じていなかった、純粋な「男」としての欲求だった。
「リナさん…ダメだ、約束が…」
理性ではそう言おうとするのに、体は正直だった。俺はリナさんの細い肩を引き寄せ、その唇に自分の唇を重ねていた。
最初は戸惑っていたリナさんも、やがて熱く応えてきた。久しぶりに感じる女性の柔らかな感触と、甘い香り。背徳感と、それを上回る興奮が、俺たちを燃え上がらせた。約束なんて、もう頭の片隅にもなかった。お互いの乾ききった心を潤すように、求め合った。それは、義務でも責任でもない、ただ純粋な男女の交わりだった。激しく、そしてどこか切ない、一夜だった。
翌朝、隣で眠るリナさんの寝顔を見ながら、俺は強烈な罪悪感と、それと同じくらいの満足感に包まれていた。やってしまった。だが、後悔は不思議となかった。むしろ、何かから解放されたような、晴れやかな気持ちさえあった。リナさんも、どこか吹っ切れたような、穏やかな表情をしていた。
交換期間が終わり、俺は自宅へと戻った。玄関のドアを開けると、そこにはミサキが立っていた。一週間ぶりに見る妻の姿。だが、その表情や雰囲気は、家を出る前とは明らかに違っていた。言葉では上手く説明できないが、何というか、女性としての艶が増しているような、そんな印象を受けた。
その瞬間、俺はすべてを理解した。ミサキも、タツヤと一線を越えたのだ、と。
不思議なことに、怒りは全く湧いてこなかった。むしろ、安堵に近い感情が胸に広がった。そして、次の瞬間には、ミサキを強く抱きしめたいという衝動に駆られていた。
「…ただ今」
俺がそう言うと、ミサキは少しはにかんだような笑顔を見せた。
「お帰り、ケンちゃん」
その言葉と共に、俺はミサキを強く抱きしめた。ミサキも、驚いた様子もなく、そっと俺の背中に腕を回してきた。まるで、これが当たり前のことであるかのように。俺たちは言葉を交わすことなく、互いの温もりを確かめ合うように、しばらくの間そうしていた。
そして、どちらからともなく、寝室へと向かった。服を脱ぎ捨て、互いの肌を重ね合わせる。そこには、以前のような義務感やプレッシャーは微塵もなかった。ただ、愛しい相手を求め、愛し合うという、純粋な行為があるだけだった。ミサキの体は熱く、俺の愛撫に敏感に反応した。俺もまた、ミサキの全てを受け止め、深い悦びを感じていた。それは、まるで初めて結ばれた夜のような、新鮮で情熱的な時間だった。
数ヶ月後、ミサキの妊娠が発覚した。病院からの帰り道、ミサキは俺の腕にそっと寄り添い、「ありがとう」と涙ぐんだ。俺も、言葉にならない感動で胸がいっぱいになった。
驚くべきことに、さらにその後、リナさんの妊娠もタツヤから報告された。それぞれ、一週間の交換期間が終わってから、自分の夫と過ごした後のタイミングでの妊娠だったため、お互いの子供であることは時期から考えても明らかだった。タツヤも、電話の向こうで感極まった声をしていた。
あの一週間の出来事が、直接的な原因だったのかは分からない。だが、俺もミサキも、タツヤもリナさんも、あの経験を通して何か大切なものを取り戻したような気がする。「子供を作らなければ」という強迫観念にも似た義務感から解放され、お互いが純粋に相手を愛し、求めることができた。その結果が、新しい命という形で現れたのだとしたら、それは本当に奇跡的なことだ。
あれ以来、夫婦交換はしていない。タツヤとは以前よりもさらに深い絆で結ばれた気がするし、リナさんとも、たまに顔を合わせれば、あの秘密を共有する者同士の、悪戯っぽい笑みを交わすことがある。
もちろん、あの夜のことは、俺とリナさんだけの秘密だ。ミサキも、タツヤとの間に何があったのか、俺には何も語らない。それでいいのだと思う。
ただ…時々、ふとした瞬間に、リナさんのあの夜の熱い眼差しや、柔らかな肌の感触を思い出してしまうことがある。そして、たまには、またあんな刺激的な一週間を過ごしてみるのも悪くないかもしれない、なんてことを考えてしまう自分もいる。
もちろん、そんなことはミサキにも、タツヤにも、リナさんにも、絶対に言えない秘密だけど。