9.沈む思い
教室のドアを開けた瞬間、昨日の夜のことが頭に浮かんだ。
結局、ちゃんと自分で宿題した後、カイに“ぐっすり眠れて、しかも疲れも取れる”魔法をかけてもらったおかげで、目覚めは快調そのもの。
魔法って、ずるい。いや、便利すぎる。
「おはよー!」
「おはよー、澪!」
声をかけてくる友達に笑顔で返しながら、教室に足を踏み入れる。
今朝もカイと一緒に登校してきたせいで、廊下や階段で女子たちからやいやい言われたのは言うまでもない。
「えー! カイくんって澪のいとこなの!? 紹介してー!」
「今度一緒にカラオケ行こーよ!」
「はいはい、後でねー」
笑いながら軽くいなし、やっとのことで自分の席に腰を下ろす。
すると前の席から、佐伯詩音が身を乗り出してきた。
「ねえ澪、さっき5組の子に聞いたんだけど――灯、今日学校来てるみたい!」
「……灯が!?」
澪は椅子をがたんと引いて立ち上がると、そのまま廊下へ飛び出す。
5組の教室まで一直線。
教室の扉を開けると、そこにいたのは――
先月の事故で足を負傷し、入院していたソフトテニス部の部長、高宮灯だった。
制服姿の彼女は、片手に松葉杖をつきながらクラスメイトに囲まれている。
笑顔は変わらないけれど、その歩き方はまだ慎重で、時折バランスを取るように足元を見ていた。
「灯!!」
思わず声を上げ、澪は駆け寄る。
灯は振り返り、驚いたように澪を見つめ――ほんの一瞬、瞳を揺らした。けれどすぐにうつむきがちになり、申し訳なさそうに口を開く。
「澪! ……ごめん、朝練に顔出そうと思ったんだけどさ、この足じゃ階段の上り下りきつくて」
「ううん、……足、どう?」
問いかける澪に、灯は一瞬だけ困ったように眉を寄せて、それから笑おうとした。
「……たぶん間に合いそうもない。ほんと、ごめん。夕方、部活には顔出すから」
その声を聞いて、澪の胸に重いものが落ちた。
「……そっか……あ、あのさ夕方コートでまってる。顔出してくれたらみんな喜ぶから」
なんとか返事をして、教室へ戻る途中の廊下で思う。
(灯は部長で、一番のエースなのに……。個人戦だって、県大会出場が決まっているのに――)
授業が始まっても、澪は上の空だった。
ノートを取る手は止まったまま、頭に浮かぶのは同じ思いばかり。
(私たちだけで勝てるの? ――いや、勝たなきゃいけないのに)
胸の奥に、重たいものがのしかかっていた。
***
夕方のコート。
ボールを打ち合う音、部員の掛け声、汗の匂い――いつもと変わらない練習風景のはずなのに、澪の胸はどこか重かった。朝、灯の姿を見てからずっと、その言葉が頭を離れない。
(……灯がいない団体戦なんて)
そんな思いが胸を締めつけた、その時。
「……あ」
誰かの声につられて入口の方を見ると、松葉杖をつきながら歩いてくる姿があった。
「灯!」
真っ先に駆け寄ったのは澪だった。
続けて部員たちも声を上げる。
「部長だ!」
「足、大丈夫なんですか!?」
コートの空気が一気に変わり、練習を止めて灯の周りに人だかりができる。
灯は少し照れくさそうに笑おうとしたが、すぐに小さく首を振った。
「みんな……ごめん。部長なのに、こんな大事な時にケガなんて……」
その声に、澪は強く首を横に振った。
「謝らないでよ! ソフトテニスができなくて一番つらいのは、灯じゃん!」
灯の瞳に涙がじんわりとにじむ。
「ありがとう澪。でも、自分の不注意でケガして、皆に迷惑かけてるのは間違いないからさ……。
でも、三年生最後の県大会、みんなで出たかったな」
その本音に、部員たちも黙り込んだ。
「灯先輩、……そんなこと言わないでくださいよ。事故は先輩のせいじゃないですよ」
「私も、先輩と一緒に大会出たかったっす」
誰もが下を向き、言葉を失う。
しんとした空気が流れ――その時。
「――澪!」
コートの外から軽い声が飛んだ。制服姿の少年が立っている。白銀の髪が夕暮れを受けて淡く光る。その隣には、美少女がぴたりと寄り添っていた。
「カイ先輩!」
「……え、隣の子だれ?」
ひなたとりりあが同時に声を上げる。
「カイ、何?」
澪がカイに視線を向ける。
カイは片手をひらひらさせた。
「この子、同じクラスの佐木留美華ちゃん。――で、今日からお付き合いすることになった僕の彼女」
さらっと言って、肩をすくめる。
「彼女がさ、一緒に帰りたいって言うから。……僕、先に学校出るって伝えに来たんだよね」
その瞬間、部員たちが一斉にどよめいた。
ひなたとりりあは、口をぽかんと開けたまま言葉を失い、次の瞬間そろって視線を落とした。ラケットを持つ手がだらりと下がり、がっかりした様子が隠しきれない。
「え……誰、この人?」
灯が驚いたように澪に視線を向ける。
「あ、うん……私のいとこのカイ。この学校に転校してきたんだ」
「初めまして! 澪のいとこのカイ・ルクレシオだよ。よろしくね」
カイは軽く笑って、片手を差し出す。
灯は松葉杖を支えにしながら、その手を軽く握った。
「ソフトテニス部の部長、高宮灯です。……よろしく」
その瞬間、カイの視線がふと灯の足に落ちる。
「足……ケガしてるんだ? それって、澪が言ってた大会に出られるの?」
灯も澪も、そして周りの部員たちも一斉に表情を曇らせ、視線を落とす。
気まずい沈黙を切ったのは、隣の瑠美華だった。
「ねえ、カイ君。そろそろ帰ろ?」
甘えた声で彼の腕を引く。
「あーはいはい、ちょっと待ってよ留美華ちゃん」
カイは苦笑しながら応じ、最後に軽く手を振った。
「じゃ、澪。また後で」
そう言って、瑠美華と並んで去っていく。
「……やだ、なにあの女」
「ちょっと可愛いからって、可愛いからってー」
ひなたとりりあが小声で毒づき、澪は思わずため息をついた。




