8.ズルの境界線
その晩の夕食は、宣言どおりカイの手作りになった。
台所では油が小気味よくはぜる。「ジュウ」と音が伸びるたび、甘辛い照り焼きの香りが部屋に満ちていく。まな板の上では包丁が軽快に踊り、ネギが均一な輪になって並んだ。
「はい、火強すぎると固くなるからねー……うん、いい色」
カイはフライパンを返しながら、鍋のほうも気にする。卵の溶きどきを見極めたみたいに、ふわりと混ぜてすぐ火を落とした。
メニューは、たんぱく質多めのアスリート仕様。照り焼きチキン、卵入りほうれん草スープ、木綿豆腐とツナのサラダに、角切りトマト、上には刻んだミョウガと大葉。仕上げに、チキンにレモンをひと搾り。皿の上に乗る色が気持ちいい。
澪はというと、風呂掃除をさっさと済ませ、バルコニーで洗濯物のピンチを外してはカゴに落としていく。Tシャツが乾いた布の手触りでパサっと音を立て、夕方の冷たい空気がほほを撫でた。
いつもなら、この後バタバタと夕飯の用意をするのだが。
(なんだかんだ言っても、すごく助かる……)
壁の時計は八時半を少し回っている。お父さんは残業で、帰りは十時過ぎ。
「先に食べよ」
「そうしよ。冷めると味が締まりすぎちゃうから、今がベスト」
二人で「いただきます」。
まずはトマトに手をつける。口に入れた瞬間、ミョウガと大葉の風味がポン酢と合わさって、ちょっぴり大人の味。
次は照り焼き、口に入れると肉のうまみと甘辛いソースが口に広がる。
「……うまっ」思わず出た言葉が自分でも笑える。
カイが目だけで得意げに笑う。
「美味しい?」
「正直、めちゃくちゃ美味しい!」
「よかった。塩分は控えめ、でもたんぱく質はしっかり。澪ちゃん今日めっちゃ動いてたからね」
「見てたの?」
「うん。フェンス越しに」
照れをごまかすみたいに、澪はスープをすする。やわらかい卵の甘さとネギの風味が、練習の疲れをほどくみたいに体に落ちていく。
「いやー、嫁に欲しいわ」
「ごめん、それはちょっと」
「出し惜しみすんなって」
「出し惜しみじゃないし。僕、男の子だもん」
「言い方〜」
笑い声が、いつもより大きい。
(お父さんが残業なのに、こんなに騒がしい食卓、初めてだな……)
胸の奥が、ちょっとだけきゅっとなる。楽しいのに、さみしいに近い何かが混ざって、悔しい。
食後、食器が水に触れて「からん」と澄んだ音を立てる。
「私、宿題あるから、カイ先にお風呂入っちゃって」
「一番風呂ってやつだね! 僕が入っていいの?」
「異世界にも一番風呂のこだわりってあるの?」
「いや、お風呂なんて家にあるのは貴族か王族。庶民は公衆浴場。だからさ、この世界は一家に一台で……ちょっと憧れだよねー」
カイは片目をつむってウインクし、タオルを肩にかけた。
「へー」
興味なさそうに言いつつ(確かに、毎日のお風呂が他人と共用なのはちょっと……ここに生まれて良かった)と密かに頷いた。
部屋に戻って机に向かう。ノートの白に、スタンドライトの光が冷たく反射する。
ペン先が紙をなぞる音と、遠くで湯が落ちる音。
はじめは宿題の問題に集中していた。けれど、滴る音がひとつ、またひとつ重なるごとに、意識はだんだん遠のいていく。
文字の列は目に入っているはずなのに、頭の中を占めるのは、コートに立つ自分の姿だった。
(インハイ予選まで、あと2週間……)
今日の配球――クロスで振って、ロブ、最後は逆クロス。
サーブ、レシーブ、足の運び……
そこでふと、胸がざわつき、ペンが止まった。
(……灯……間に合うのかな)
息を飲む音が、自分でも聞こえるくらい静かな部屋。
トントン、と扉が優しく叩かれる。
「はーい」
返事をすると、湯気と石けんの匂いがふわっと流れ込んできた。
立っていたのは、お風呂上がりのカイ。
真っ白なTシャツに、膝上までのグレーのハーフパンツという軽やかな部屋着姿。
透けるように明るい肌に白がよく映え、濡れた銀髪からは水滴がつっと落ちていく。
片手でバスタオルを握り、もう片方で銀色の髪をゴシゴシと拭きながら、気だるげに笑った。
「そういえば澪、今日のお願いって結局どうする?」
「あ……そういえばまだだった」
真っ白なノートを見つめる。ページの白が、やけに眩しい。
「えっと、今日の宿題さ……魔法でやってくんない?」
カイは口角だけ上げて笑い、首を少しかしげた。
「僕は別にいいんだけど……澪はそれでいいの?」
その言い方がずるい。からかってるのか、本気で聞いてるのか、どっちにも聞こえる。
ノートとカイを見比べて、澪は息を吐いた。
「……やっぱズルはダメだよね」
ペン先が紙に戻る。黒い線が、さっきより少しだけ真っ直ぐに伸びた。
(昨日会ったばっかなのに、私の性格、よくわかってんじゃん)
ふと、思いついて振り返る。
「カイってさ……ズルの境界線って、どこにあると思う?」




