61.蒼石の腕輪
帝国の空気は、刃のように冷たい。
まだ振り下ろされてもいないのに、皮膚の奥が先に痛む。
第一宮廷魔導士団の塔――その巨大な黒い門の前で、リュシアは深く息を吸った。
腕の中には、フードを深くかぶせ、外套でぐるりと包み込んだ澪。
抱き上げた少女の体温だけが、帝国の空気の冷たさから切り離された小さな灯火のように、リュシアの胸元で静かに温度を主張していた。
門番たちが無言で道を開く。
金属の扉が静かに閉ざされる音が、塔の内部へ響く。灰色の石壁に魔導の光が淡く揺らぎ、まるで塔そのものが澪の存在を観察しているようだった。
「モルフェウス様。娘を連れて参りました」
リュシアが静かに膝を折る。
モルフェウスは歩み寄り、腕の中の澪へ視線を落とした。
「ほう……これが、カイが執心していた娘か」
伸ばされた手が、澪を受け取ろうとする。
その瞬間、リュシアは一歩だけ身体を引いた。
ほんの僅かな動き。だが、抑えた緊張が石畳に落ちた。
「お待ちください。連れてくる前に少々暴れましたので、眠りの魔法をかけております。目を覚まされては面倒です。このまま私が運びましょう」
声は柔らかいが、一切の隙がない。
モルフェウスは少しだけ目を細めた。
「暴れた、とな」
口元がわずかに吊り上がる。
「ふむ……以前お前が言っていた通り、星永の乙女らしからぬ娘のようだな。では、任せよう」
許可の言葉が落ちると同時に、リュシアは澪を胸元に抱きなおし、無言のまま塔の奥へ進んだ。
辿り着いたのは、あの部屋――。
時を戻す前、澪が最初に目を覚ました場所。
中央には澄んだ水盤が置かれ、天井から落ちる光が水面に揺れている。
リュシアはそっと澪を横向きに寝かせた。
そこへ背後からモルフェウスの足音が近づく。
「乙女らしからぬ娘……とはいえ、確認はするべきだな」
モルフェウスは軽く指を鳴らした。
すぐ傍に控えていた従者が一歩進み出る。
「アステリア神殿の大神官を呼べ。娘が目を覚まし次第、白月花の儀を執り行わせる」
モルフェウスの低い声が部屋に落ちると同時に、従者は一礼し、足音を響かせて走り去った。
その背中を見送った一拍の静寂のあと――リュシアが、慎重に息を整えるように口を開いた。
「……モルフェウス様。
カイ団長の件で、少々お伝えしたいことがございます。この後、お時間を頂けますでしょうか」
リュシアが頭を垂れると、モルフェウスは自然に頷いた。
「……ふむ。カイのことか」
興味が、ひどく静かに光る。
「では場所を変えよう」
モルフェウスはゆるりと踵を返し、扉へ向かう。
リュシアは深く頭を垂れ、一歩下がってその背に従う構えを見せる。
扉の前で、モルフェウスはふと立ち止まり、振り返った。薄布で顔を覆った侍女と、石床に横たわる澪へ冷ややかな視線を向ける。
「娘が目を覚ましたら、すぐに私を呼べ」
「はっ」
モルフェウスが扉の向こうへ姿を消した、その直後――リュシアはほんの一瞬だけ歩みを止め、侍女へ視線を向けた。
「あの娘に、何か掛けておきなさい」
声は低く、簡潔な指示を出した。
侍女は一拍遅れて、小さく頷いた。
「承知しました」
それだけを確認すると、リュシアは何事もなかったかのように再び歩き出す。
扉が重い音を立てて閉ざされる。
残されたのは、侍女のかすかな呼吸と、水盤の滴る音だけ。
***
扉が閉ざされた後、部屋は水音だけに満たされた。
澪は外套に包まれ、横向きに横たえられたまま、微動だにしない。
やがて、控えめな足音が近づく。
扉が静かに開き、白布をまとった侍女が戻ってきた。
その腕には、折り畳まれた毛布。
淡い色合いの布が、揺れる灯りを受けて柔らかく影を落とす。
侍女は音を立てぬよう歩み寄り、澪の傍に膝をついた。
毛布が、澪の肩に触れようとした――その、ほんの一瞬。
突然、眠っているはずだった澪が、横たえられたまま上半身をわずかに起こし、侍女へ向けて手を伸ばした。
毛布を掛けようとかがんだその目前で、澪の掌が開く。
淡い光がそこから溢れ出し、侍女の身体を包み込んだ。
侍女の指先が、空中で静止する。
澪は、静かに目を開けた。
その瞳の奥で、星屑を閉じ込めたような金色の光が淡く瞬く。
音を立てずに身を起こした澪は、動かぬ侍女の前に立った。
時を奪われた身体は、呼吸すら止めたまま、ただそこに在る。
布が擦れる、ひそやかな音。
澪は素早く自分と侍女の衣を入れ替えた。
続いて、先ほどまで自分を包んでいた外套を、頭まですっぽりと侍女に被せる。
そのまま、澪が横たわっていた位置へ、そっと身体を横向きに寝かせると、用意されていた毛布を引き寄せ、丁寧に掛ける。
最後に澪は、侍女が顔を覆っていた白い布を手に取り、目から下を静かに隠した。
***
モルフェウスの執務室は、塔の最上階にあった。
高い天井と、外界を見下ろす細長い窓。書棚には年代も分からぬ魔導書が並び、机の上には整然とした書類の山が積まれている。
モルフェウスは椅子に腰を下ろし、指先で机を軽く叩いた。
促され、リュシアは一歩前へ出る。
「……ご命令どおり、異世界でのカイ団長の動向を確認しておりました」
声音は淡々としている。
「団長は、あの娘に――これまでに見たことがないほど、強く執着していました」
一瞬の間。リュシアは言葉を選ぶように、ほんのわずかだけ息を置く。
「感情を表に出すことのないあの方が、あれほど心を揺らすを見たのは、初めてです」
窓の外で、帝国の空が鈍く光る。その色を映すように、モルフェウスの瞳が細くなる。
「ほう……」
次の瞬間、低い笑い声が室内に落ちた。
愉快そうでいて、どこか歪んだ響き。
「母親が死ぬときでさえ、眉ひとつ動かさなかった男がな」
モルフェウスは背もたれに身を預け、指を組む。
「なるほど。あれほどの強さと引き換えに、人としての心を失ったかと思っていたが……そうでもないらしい」
リュシアは視線を伏せたまま、続ける。
「……だからこそ、あの娘がこちらの世界にいることは、団長には悟られない方がよろしいかと」
モルフェウスは一瞬、考えるように黙したあと、口角を上げた。
「確かにな。余計な希望を与えて暴走されても困る。お気に入りのおもちゃが“手の届く場所にある”と知れば、あの男は、理すら踏み越えかねん」
リュシアは黙って頷く。それが、忠誠の証のように。
突然、控えめなノックの音が執務室に響いた。
「入れ」
扉が開き、白布で顔を覆った侍女が茶器を手に入ってくる。
静かに一礼し、モルフェウスの前へ進む。
カップを机に置いた――その、次の瞬間。
侍女は顔を上げ、モルフェウスへ向けて両手を広げた。
掌の奥から、淡い光が溢れ出す。
それは音もなく広がり、モルフェウスの身体をすっぽりと包み込んだ。
瞬間、男の動きが止まる。
世界からモルフェウスの時だけが、切り取られる。
澪はリュシアと一瞬だけ視線を交わし、頷いた。
ここまでは計画通り。
澪はモルフェウスの左腕に手を伸ばし、蒼石の腕輪に指を掛けた。
しかし——動かない。
胸の奥が、ひやりと冷える。歯を食いしばり、もう一度力を込める。
だが、焦りで滲む汗に指が滑った。
「……っ」
一瞬、呼吸が乱れそうになる。
澪はぎゅっと目を閉じ、深く息を吸った。
大丈夫。
時間は、まだ止まっている。
服の裾で手の汗を拭い、もう一度、慎重に指先を這わせる。
すると――微かな突起が、指腹に触れた。
「……ここ」
そこを押した、その瞬間。
かすかな抵抗とともに、腕輪が、するりと外れる。
澪は反射的にそれを握り締めた。
カイの魂の半分……蒼石が、掌の中でひどく冷たい。
「……もうすぐ、時が動き出す」
「急ぎましょう!」
ふたりは同時に駆け出した。
途中、澪は一度だけ振り返った。
止められたままのモルフェウスが、机の前で静止している。
伸ばしかけた指、愉快そうに歪んだ口元――そのすべてが、時の外に切り取られていた。
澪は腕輪を胸元に押し当て、扉を開く。
「こっちよ!」
リュシアが澪の手首を掴み、外階段へと導く。石段を駆け上がる足音が、夜の塔に響く。
一段、また一段。
石の階段を踏みしめるたび、胸の奥が急き立てられる。
立ち止まる暇はない。振り返る余裕もない。
早く――一刻も早く、この塔を抜けなければ。
頭に浮かぶのは、ただひとつ。この腕輪を――カイの元へ。
時間が戻りきる前に。モルフェウスが異変に気づく前に。
何より、自分の足が震え出す前に。
息が喉に引っかかり、心臓の音がやけに大きく響く。
大丈夫。まだ、間に合う。
そう言い聞かせながら、澪は階段を駆け上がった。
屋上へ出た瞬間、冷たい夜風がふたりを打った。
帝国の街が、足元に広がっている。
リュシアは振り返り、澪の肩を掴む。
「私につかまりなさい。……決して、その腕輪を離さないで」
澪は短く頷き、腕輪を握る手に力を込めた。
次の瞬間、足元の感覚が失われる。
塔の縁を蹴り、ふたりの身体は宙へ放り出された。
重力が一瞬、牙を剥く。
だがすぐに、見えない力が澪の身体を包み込んだ。
魔法の風が、落下を拒み、ふたりを抱え上げる。
塔が、急速に遠ざかる。
その背後で――何かが軋むような気配がした。
澪は――モルフェウスの時が、動き出そうとしているのを感じていた。
歯を食いしばり、夜空を見上げた。腕輪の冷たさが、まだ確かに掌にある。
――間に合った。
だが同時に、胸の奥で小さな警鐘が鳴る。これは、始まりに過ぎない。
蒼石の腕輪は、夜空の下で静かに光を秘めていた。




