59.遡る、光
時を戻す力――その力がまだ失われていないと知った瞬間、澪は胸の奥が跳ねるのを感じた。
走り出したい衝動が、足の先までせりあがってくる。
でも……違う。
ただ巻き戻すだけじゃ、カイは救えない。
あの時の自分は、何も知らなかった。
この力のことも、あの世界の理も、カイが背負っていた秘密も、痛みも――全部。
「ちゃんと考えなきゃ……。カイを……絶対に救うために」
澪は自分の部屋へ戻り、机にノートを広げた。
ページを開く音が、静かな部屋に小さく響く。
指先は震えていたが、ペンを握る手には迷いがなかった。
世界の時間を巻き戻せるのは、一度きり。
失敗は許されない。
澪は深く息を吸い、あの世界で自分が見てきたもの――
聞いた話、走った廊下、裂かれた光、それらをひとつひとつ思い出しながら書きつけていく。
どの瞬間に戻るべきか。
どう動けば、カイを救えるのか。
だれも傷つけない為には、どう行動したらいいのか。
モルフェウスが動くタイミングは。
文字がページを埋めるほどに、澪の胸に眠っていた光が静かに灯り始める。
気づけばその瞳は、ソフトテニスの試合で戦略を組むときの――
あの時と同じ、強い光を宿していた。
「……負けない。絶対に」
澪はそっとペンを置いた。
ページの上には、震えと覚悟が混じった自分の筆跡。
そのどれもが、未来への宣言になっていた。
***
準備は整った。
澪は深く息を吸い込み、自分の頬を両手でパシンと叩いた。
「……よし。気合い入れろ、私」
胸が震えている。
怖い。でも――止まっていられない。
部屋のドアを見つめ、そっと呟いた。
「お父さん……絶対にちゃんと戻ってくるから。……いってきます」
胸の前で手を組み、瞳を閉じる。
心の奥の、あの日触れた魔力の温度を必死に探る。
――時よ、戻れ。
あのクリスマスの夜に。
澪の身体が光に包まれ、空気の層がゆっくりとねじれていく。
世界が、軋むように反転し始めた。
走馬灯のように景色が流れ、時間が逆向きにほどけていく。
夜の灯りが巻き戻され、雪が空へ返り、人々の足跡が元に戻っていく。
音も色も、世界そのものが逆さに滑っていく。
澪の意識はその渦に溶けていった。
***
温かい。
手の甲に触れる、懐かしい体温――。
澪はゆっくりと目を開けた。
自分の部屋のベッドの感触。
天井の色。
そして、
……廊下へ出て行くカイの背中。
(……カイ……生きてる……!)
声を上げたい衝動を、澪は喉の奥で必死に押し殺した。
胸が痛いほど震えている。
本当は泣き叫びたかった。
でも――今はまだ。
(ダメ……今カイに全部話すわけにはいかない。
カイの行動は全部モルフェウスに筒抜け……。カイを危険に晒すことになる……
それに、今話したら――きっと、また一人で全てを背負おうとする)
隣の部屋に微かに感じていた気配が離れていくまで、澪は動けなかった。
やがて完全に気配が消えたのを確認し、そっと起き上がる。
しばらく深呼吸して、落ち着きを取り戻し、ベッドに腰をかけた。
「……きっと、私を連れ去りに……あの人が来るはず」
迎えに来るのが誰なのか、澪にははっきりとは分からなかった。
けれど――胸の奥に、ひとつの顔が浮かんでいた。
この世界でも、一度だけ出会った、紫の髪の女性。
あの時カイと自分を助けてくれたひと……もし彼女なら。
話を聞いてくれるかもしれない。
協力を願えるかもしれない。
――でも。
もし、現れるのが、あの男だったなら。
胸が強く脈打つ。
そして数分後。
澪の部屋の窓辺で、空気がゆらりと揺れた。
紫の髪が月光をふわりとすくった。
「……やっぱり……あなただったんだね……」
澪が小さく呟くと、
窓をすり抜けて現れたリュシアが、驚愕の表情で澪を見た。
「……娘!? なぜ目を覚ましているの……!」
反射的に右手が持ち上がり、その掌に光が集まる。
「待って!!」
澪は慌てて立ち上がり、リュシアの前に両手を出した。
「あなた……カイの部下のリュシアさん、だよね……?
お願い、魔法はかけないで……話を聞いてほしいの!」
「何を言っている……怪しい娘め!」
リュシアの声は鋭い。
澪の一挙手一投足を警戒している。
「お願い!! カイを助けるためなの! ……だから、話を聞いて」
澪の必死な声、その震え。
“カイ”という名前が出た瞬間、リュシアの手がわずかに止まった。
振り上げていた右手が、ゆっくりと下ろされる。
「……話だけでも、聞こう。だが下手な嘘を言えば――」
「ありがとう」
澪は息を整え、リュシアをまっすぐ見た。
「今から言うことを信じてほしいの。……私は、あなた達の探していた星永の乙女なの」
「は……? 何を言っているの?
団長は、あなたは“花を枯らした”と報告していたわ」
「それはきっと……カイが、私を守るためについた嘘。……リュシアさん、私の瞳を見て」
澪は一歩近づき、リュシアの前に顔を向けた。
リュシアは一瞬だけ迷ったが、その瞳を覗き込んだ。
次の瞬間――
「……な……この瞳は……星永の乙女の……!?」
夜空の星を散らしたような光、深い闇の奥に瞬く光の粒。
紛れもなく、古の伝承に語られる“選ばれし者”の瞳だった。
「本当に……あなたが……? でもおかしい……白月花の儀はアストリア神殿の神官にしか……!」
「私は、そのアストリア神殿のアゼルさんの行った、白月花の儀で星永の乙女になったの」
「アゼル……!? なぜその名を……!」
リュシアの声が震える。
澄んだ目の奥で、警戒と困惑が交錯する。
「私は一度、あなたたちの世界に行った。そこで白月花の儀を受けて星永の乙女として覚醒した。
そして――時を戻して、ここに帰ってきたの」
「時を……戻した……ですって……? 星永の乙女に、そんな力があるなんて聞いたことない……」
リュシアは言葉を失った。
「聞いて。私が世界を巻き戻した理由を」
澪は一度唇を噛み、胸の奥から絞り出すように続けた。
「カイは……あの世界で私をアストラリオスの犠牲にさせない為、モルフェウスに逆らったの。
そして……私を元の世界に帰すために戦って、モルフェウスに胸を貫かれた……」
言葉が震えた。
涙がこぼれそうになる。
リュシアの表情が硬直する。
信じられない、という言葉がその瞳に浮かんでいた。
「……団長が……? あなたを守るために……?」
「信じられないよね。でも、カイだけじゃないの。あなたも……多分アゼルさんも……モルフェウスに……」
澪は拳を握りしめた。
「だから私は……カイも、あなたも、アゼルさんも傷つかない未来を、やり直すために戻ってきたの」
深い闇の中で、澪の言葉だけが真っ直ぐに向けられる。
「お願い……協力してほしい」
まっすぐな瞳。
その必死さと透明な光に、リュシアは息を呑んだ。
(この娘の言葉は……信じがたい。だが、この瞳は……嘘ではない)
リュシアはゆっくりと魔力を収めた。
「……もし、それが嘘でないのなら。あなたは……私に何を望むの?」
澪は迷わず言った。
「カイにかけられた呪いを解きたい。モルフェウスに奪われたカイの魂の在処と、あなたしか彼を癒せない呪いの解き方を教えてほしい」
リュシアの瞳が揺れる。
「……そんなことまで知っているのね」
リュシアは澪を鋭い目で見つめた。
「……ねえ。あなたが言ったことが全部、事実だったとして――あなたは団長に命を救われて、元の世界に帰ってこられた。
本来なら、そのまま平穏に過ごせたはずよ。あの世界のことも、団長のことも……忘れてね」
その声音には、疑いと、わずかな怒りと――
理解できないという戸惑いが混ざっていた。
澪はしばらく黙ったまま、両手をぎゅっと握り締めた。
リュシアの言うことは、正しい。
「……ごちゃごちゃ言い訳する気は、ないよ」
ぽつりと澪が言った。
その声は力強く、リュシアの耳に届いた。
「ただ……ただ、私が……カイに、生きていてほしい。命を助けたい。それだけなの」
「生きていてほしい?
団長があなたに近づいたのは“星永の乙女”を見つけるため。
あの百日間は、そのためだけの偽りだったって……知っていて言っているの?」
「分かってる!」
澪は即座に言い返した。
「カイの嘘も、隠してた本当の目的も……全部アゼルさんに聞いた。でも……」
胸の前で、ぎゅっと手を握りしめる。
「でも、それでも……私をモルフェウスに差し出さずにいてくれた。
あの最後の瞬間も、カイは……命をかけて、私を元の世界に戻してくれた」
澪の息がかすれる。
「だから……この世界で一緒に過ごしたカイが、全部嘘だったなんて、そんな風に……思えない。
私はカイを助けたいの。
そうじゃないと……カイのあの姿を……あの、悲しそうに笑った顔を……心に抱えたままで……
私、この先……どうやって生きていけばいいのか……分からない……」
リュシアの瞳が鋭さを弱める。
少女の声は震えていたが、嘘がひとつも混じっていない。
そして――リュシアは初めて“澪の覚悟”を理解した。
「……そう。そこまで……言えるのね」
ほんの一瞬の沈黙。
その後で、リュシアは静かに息を吐いた。
「でも、あなた……分かっているの?
あなたが星永の乙女なら――帝国に戻れば、今度こそアストラリオスの贄にされるかもしれない。
団長の命だって助けられる保証はない。
それでも行くというの? 恐ろしくはないの?」
澪は胸の前で拳をきゅっと握った。
「怖いよ。
時を戻しても、カイを救えないかもしれない。
私だって……今度こそ戻ってこれないかもしれない」
一度、目を伏せる。
「それでも……たったひとかけらでも、カイを救える道があるなら……
私は……もう一度、あの世界に向かう。
カイを、一人で苦しませたままには……絶対にしない」
視線が揺れる。
喉の奥に痛みと熱が混じる。
「何もせずに諦めて、元通りに生きていくなんて、そんなこと、できない」
リュシアはしばらく澪を見つめていた。
その瞳の奥の震えと、言葉の熱。
ふざけても、嘘にしても、できるものではない。
「……あなた、本当に……愚かなくらい真っ直ぐね」




