58.立ち尽くす
澪が元の世界に戻ってから、ひと月が過ぎていた。
九ヶ月もの空白。
行方不明だった娘が突然戻ってきたのだから、父親がどう接していいのか分からなかったのも当然だ。
最初の数日は、父は澪に触れる指先さえ震えていた。
湯のみをそっと置く手つきも、声をかける時の呼吸も、どこか怯えるように慎重だった。
警察からの事情聴取は延々と続いた。
けれど澪は、あの世界の話などできるはずがない。
結局、「九ヶ月の記憶がない」――そう答えるしかなかった。
同級生たちはもうそれぞれの進路へ進んでいる。
大学、就職、専門学校、浪人。
澪だけが、ぽつりと取り残されていた。
ソフトテニス部の仲間には、連絡を取ろうと思えば取れた。
でも――その勇気がどうしても出なかった。
あの日から、今の自分と彼らの前の自分では、もう別人になってしまった気がしたから。
「お父さん、図書館行ってくるね」
「ああ……気をつけてな」
このやり取りだけが、今の家に残された唯一の“生活の音”だった。
澪は、毎日のように図書館へ向かった。
父のすすめで高卒認定の本も借りてみたが、開いたページの文字はどれも遠く、胸にすっと入ってこない。
家にいると、父の視線が痛かった。心配しているのは分かる。
けれどその優しさが、いまの澪には苦しかった。
その日は、図書館へ向かう気になれず、気づけば足は勝手に“通い慣れた道”へ向いていた。
高校へ続く登校経路。
途中のコンビニ。
河川敷のゆるいカーブ。
ヒトツバタゴの並木道。
すべてが、澪の胸をかきむしってくる。
カイと並んで歩いた道。
夕陽に照らされた髪が、茜色に光っていた帰り道。
部活帰りにペットボトルの水を奪い合ってふざけた時間。
全部――触れたくなくて、必死に目を逸らしてきた記憶。
それがいま、一気に押し寄せてくる。
足が止まり、呼吸が苦しくなる。
「あ……っ」
あの日境界の間で、魔力の閃光に貫かれた胸。
腕の中で吐き出された、信じられないほどの血。
澪の肩を押す、震える手。
光の中で消えていくカイの姿。
「……カイ……」
澪はその場に膝をついた。
視界が滲んで、灰色のアスファルトが歪む。
「カイ……カイは……きっと、もう……」
言葉にすると同時に、胸の奥が裂けるように痛んだ。
涙が止まらない。
呼吸を吸うたびに喉の奥が軋み、息を吐くと胸の奥が冷える。
帰ってきてから、どう生きていけばいいのか分からなかった。
扉が閉ざされてから、一ヶ月。
澪はこの世界に、まだ一度も“戻って”こられていなかった。
涙に濡れた頬を両手で覆いながら、澪は小さく震えた。
「……私にはもう、何もできない………」
そのとき、ふいに――
最後に見せたカイの笑顔を思い出した。
――君の瞳は、本当に……美しいね。
あの日、カイが最後に自分に告げた言葉。
その優しい声が、胸の奥をそっと締めつける。
「……カイ……」
風が吹き抜けた。
ヒトツバタゴの白い小さな花が、一つ、澪の膝の横に落ちた。
まるで――誰かがそっと置いたみたいに。
***
何もできぬまま……澪は、ただ日々をやり過ごしていた。
学校でもない、部活でもない、未来でもない。
どこにも向かえない時間だけが、静かに積もっていく。
ベッドの上でスマホを弄っていると、指がふいに写真フォルダを開いた。
無意識だった。
けれど画面に映るサムネイルを見た瞬間、澪の呼吸が止まる。
――クリスマス。
こっちの世界で、カイと過ごした最後の日。
澪は勢いよく起き上がる。
写真をタップすると、画面いっぱいにカイの笑顔が広がった。
白い息の中で寄り添う二人。ツリーの灯り。
こっちの世界で残された、唯一の“二人の証”。
「……この日に……戻れたら……」
胸の奥がじん、と熱を取り戻す。
その瞬間、澪はハッと気づいた。
机の引き出しを乱暴に開け、小さな手鏡を取り出すと、自分の瞳をのぞき込む。
漆黒の中にちりばめられた細かな光。
星屑のような模様が、確かに揺れている。
星永の乙女の証。
もしかして……まだ。
澪は窓辺へ駆け寄り、電線に止まった鳥をじっと見つめた。
震える手を鳥に向け、かすれた声でつぶやく。
「……時よ、止まれ」
鳥は微動だにしなかった。
もともとあまり動かないため、止まったのかどうか分からない。
「……分かんないな……」
澪は上着を羽織り、慌てて外へ出た。
冷たい空気が肺に刺さる。
向かったのは近くの小さな公園。
歩いている猫を見つけると、息を呑んだまま手をかざした。
「……時よ……止まれ!」
空気が揺れたような感覚。
猫が、歩いた姿勢のまま、完全に止まった。
「……え……」
澪は震える指先で猫の背中に触れた。
ぬくもりだけがあり、動きは一切ない。
「止まってる……本当に……」
胸が熱くなる。
消えていなかった。
あの日の力が、まだ体の奥に残っている。
そのとき、脳裏にアゼルの声がよみがえる。
(――星永の乙女は、生涯に一度だけ。世界の“時間”を巻き戻すことができるのです)
世界の時間――。
もし、あの日に戻れるのなら。
「……カイを……救える……?」
澪の瞳に、久しぶりに強い光が宿った。
止まっていた時間が、静かに動き出す。




