57.光の中へ
風が肌を切り裂くように荒れていた。
カイは澪を抱きかかえたまま夜空へ跳び上がり、帝都を駆け抜ける。
胸の奥で、焦りが燃えていた。
──モルフェウスは、すぐ追いついてくる。
一秒でも早く。少しでも遠くへ。
異世界の扉まで……!
澪は腕の中で必死に風に耐え、片目だけ開く。
砂ぼこりにまみれたカイの横顔。
痛みを押し込めながら、ただ澪のために進み続ける横顔だった。
その表情が胸に刺さる。
怖くて、切なくて、悔しくて──澪は唇を噛んだ。
風の音がすべてをさらっていく中、ただ、彼女の鼓動だけが妙に鮮やかに響いていた。
***
二人が降り立ったのは、第一宮廷魔導士団の巨大な塔。
そして、その内部にある広間──“境界の間”、そこには古代の魔法陣が床一面に刻まれ、奥には巨大な石造りの扉が立っていた。
この世界と異世界をつなぐ、唯一の道。
カイは澪をそっと下ろすと、吐息を乱しながら息を整える。
背中を走る痛みが、体を内側から裂くように疼くが……澪に悟られぬように、笑みを浮かべた。
「……見張りがほとんどいなくて助かった。間に合いそうだ」
カイは扉の前に進み、片手をゆっくりとかざす。
手のひらに魔力が集まり、扉が淡く脈打ち始める。
その瞬間だった。
「待って!!」
澪が震える声で叫んだ。
カイの手首をぎゅっと掴む。
「もし……もし私がこの扉から元の世界に戻ったら……カイは? アゼルさんは? 二人とも、どうなるの……?」
涙を含んだ瞳がまっすぐ向けられる。
残しては行けない──
その想いが澪の声から溢れていた。
カイは唇を噛み、目を伏せた。
「……澪、ダメだよ、もう時間がない。
君は帰るんだ。僕は大丈夫、命まで奪われることは……ないよ」
やさしく言おうとした言葉は、掠れていた。
それが嘘だと……澪には分かっていた。
それでも。どうしようもない現実も知っている。
自分がここに留まる限り、いずれアストラリオスが復活してしまう。
もっと多くの人の命が奪われる。
その未来だけは、絶対に避けなければならない。
澪は目から溢れそうになる涙を必死にこらえた。
「……わかった……」
かすれた息のような声で言う。
カイはそっと澪の頬に触れ、 苦しげな笑みを浮かべながら扉を開いた。
石造りの扉が重く軋み、異世界へのまばゆい光が溢れ出す。
──その瞬間。
「ぐっ……ああッ!!」
カイの身体が弾かれたように硬直し、張りつめた悲鳴が広間に響き渡った。
「カイ!!」
澪が叫んで駆け寄る。
崩れ落ちたカイの体を抱き起こすと、その胸元に青白い稲光が走っていた。
境界の間の入り口から、ゆっくりと影が歩いてくる。
蒼石の腕輪を、指でやさしく撫でながら。
まるで宝物でも扱うかのように。
「……さて。どこへ行くつもりだった?」
モルフェウスが微笑んでいた。
黒い影が、境界の広間をゆっくりと満たしていく。
逃げ場など最初から存在しなかったのだと告げるように──。
「カイに何をしたの……!」
澪は崩れ落ちたカイの身体にすがりつき、震える声を上げた。
モルフェウスは指先で蒼石の腕輪を弄び、気怠げに微笑む。
「少しだけ、お仕置きをしただけだ。だが心配はいらない。……お前が大人しく、私と来るのならね」
澪の目が揺れた瞬間、カイがふらつく身体を引きずるように立ち上がる。
血と魔力の焦げた匂いが、空気に滲んだ。
「だまってろよ……先生」
低く掠れた声。
「澪を……連れて行かせるもんか」
足元がふらついても、彼はなお立ち続けた。
モルフェウスは軽い笑いを漏らして言う。
「ほう……威勢がいいな。その娘には、無様に這いつくばる姿など見せたくないというのか? だがどこまで強がっていられるかな」
腕輪に手がかざされた。
青白い稲光がカイの胸を貫き、カイは地面に膝をつく。苦悶の声が鋭く石壁に弾けた。
「カイ!!」
澪は飛びつくように膝をつき、両腕でカイを支える。
どうしよう。どうすれば――。
その瞬間、脳裏にアゼルの声が蘇る。
(“時の癒し”……それはあなたの中に眠る力)
もし、この力で……カイの傷を癒せるなら。
澪は震える手をカイの背中へかざした。
「お願い……カイの傷を治して……!」
澪の掌が白く輝きはじめる。
温かな光。祈りのような震え。
けれど――
「治らない……なんで……?」
澪は唇を震わせた。
光は確かに生まれているのに、カイの傷には何の変化も訪れない。
モルフェウスの冷たい笑い声が響いた。
「無駄だ。その男の傷は、お前では癒せない。その傷を治せる者は、この世界にただ一人だけ。そいつが癒さねば命を繋ぐことはできない。……そのように、私が仕込んでおいた」
澪の胸に、過去の記憶が突き刺さる。
カイが傷だらけで戻ってきた夜。
“僕は自分の怪我を治すことは出来ないんだ” と、あの時言っていた。
どうして。何のために。
「カイは……あなたたちの仲間だったんじゃないの……?」
澪は涙をこぼしながらモルフェウスを睨む。
「仲間?」
モルフェウスは可笑しそうに目を細めた。
「いや、こやつは私が一から作り上げた傀儡だ。この帝国のためだけに生み落とした、使い捨ての駒にすぎん。……ただ、想定以上の力を宿してしまってな。ならば万が一にも逆らえぬよう縛りを施すのは、当然のことだろう?」
澪の喉が震え、怒りが込み上げる。
「傀儡とか……駒とか……人を……カイを何だと思ってるの……!」
カイは弱々しい呼吸の中、微笑んだ。
「そうだよ、澪……僕はあいつらにとって、ただの都合のいい人形なんだ。命令に従わなければ簡単に切り捨てられる存在だよ。
それでも……君をあいつらに差し出すくらいなら……この命を奪われようと……構わない」
そう言って、カイは震える腕を持ち上げる。
モルフェウスに向けて。
刹那、空気が裂けた。
轟音とともに、巨大な火球が放たれた。
爆ぜる熱が境界の間を揺らし、石壁が赤く照らされる。
「……っ!」
モルフェウスは腕を掲げ、結界を張る。
だがカイの魔力は凄絶だった。
結界が軋み、ひび割れ、モルフェウスの肩口に深い傷が走る。
それでもモルフェウスは腕輪へ指先を触れた。
蒼石が脈打つ。
次の瞬間、カイの胸元を稲光が貫く。
爆ぜる痛みにカイの叫び声が響いた。
「カイ!!」
澪の悲鳴が石造りの広間に吸い込まれていく。
モルフェウスは肩から流れ落ちる血を見下ろし、ふっと笑う。
「まさか……この私を……父を、本当に殺そうとするとはな」
カイは血の混じった息を吐き、嘲るように笑った。
「……あんただって……本気で僕を殺しにかかってるくせに……今さら“父”だなんて……笑わせる……」
その目は、痛みに濁りながらも、最後まで澪だけを守ろうとする光で燃えていた。
「カイの父親……? それなのに……なんで、こんな酷いことができるの……」
澪の声は震えながらも、かすかに怒りで熱を帯びていた。
モルフェウスは無表情のまま石のように沈黙している。
澪は立ち上がり、両手をすくめるように前へ突き出した。
胸の奥が熱く、苦しく、破れそうだ。
(できるかなんて分からない。だけど……お願い!)
“時よ──止まれ”
囁くような声だった。
次の瞬間、空気が震え、光が弾け、モルフェウスの動きがぴたりと凍りついた。
まばたきすら途切れたまま、完全に静止している。
澪の心臓が跳ねた。
「……できた……ほんとに……」
膝が震えながらも、澪はカイの肩にそっと手を置いた。
冷たい。呼吸は浅い。
「カイ……一緒に帰ろう、あの世界へ……!」
カイは、澪の輪郭をなぞるようにゆっくりと目を上げた。
焦点がまだ定まらない。それでも、澪を映すその瞳はやさしかった。
「ありがとう……澪。
君がそう言ってくれるだけで……僕はどうしようもなく救われる。
そうできたら……どんなに幸せだろう……。
君と過ごした百日間は……僕が生きてきた日々の中で、唯一……宝物みたいな時間だった」
澪は息を飲む。
「カイ、帰ろう──!」
だが、カイはゆっくり首を振った。
顔を歪め、笑おうとしながら。
「僕は……どこにも逃げられない。魂の半分はあいつに奪われている……」
澪の喉が焼けるように痛む。
「どこへ逃げても追いつかれる。そして……奪われた魂を壊せば……あいつはいつでも……僕を殺せる……」
「そんな……そんなの……酷すぎる……」
澪の目から涙が零れた。
指先が震え、カイの肩を掴んだまま離せなかった。
カイはそれでも言葉を続けようとした。
「それに……この傷……僕はもう長くは、もたない……だから澪……今のうちに……扉に──」
その瞬間。
静止していたはずのモルフェウスの瞳が、わずかに動いた。
歪んだ笑みが広間に戻ってくる。
「なかなかやるではないか……娘よ」
突風が弾丸のように放たれた。
「澪ッ!!」
カイが叫び、反射的に彼女へと手を伸ばす。
だが、その距離は一歩も縮まらない。
指先は虚空を掴み、力なく落ちた。
澪の身体が宙を舞い、硬い床へ叩きつけられる――はずだった。
その瞬間、澪の胸元がかすかに熱を帯び、ネックレスの青い石が淡く輝き、薄い光が澪の身体を包み込む。
衝撃は膜に吸い取られるようにやわらぎ、澪の身体は床を滑るように転がって止まった。
息が詰まる。
視界が揺れ、耳鳴りが残る。
それでも――痛みが、来なかった。
澪は床に伏したまま、そっと指を動かす。
腕。肩。脚。
……違和感はあるのに、裂けるような痛みは、どこにもなかった。
(ネックレスが守ってくれた……?)
胸元の石に手を当てると、まだ微かな温もりが残っていた。
「ほう……」
低く、愉悦を含んだ声。
「そんな“お守り”を持たせておったとはな。よほど、その娘が大切と見える……」
モルフェウスの瞳が細められる。
「だが――」
空気が、再び軋んだ。
「その護り、どこまで耐えうるか――試してみよう」
再び澪へと向けられた魔力が、形を成しかけた――その時だった。
ゴウ、と低い音が地の底から響いた。
モルフェウスの足元の石床が盛り上がり、四方へせり上がる。
一瞬で“石の檻”となり、彼を閉じ込めた。
「……これは──!」
モルフェウスが驚愕の声を上げる間もなく、
天井が激しく崩れ落ち、瓦礫が彼を覆い隠した。
粉塵が舞い、澪の視界が白く染まる。
「っ……ゴホゴホッ」
喉に絡みつく空気に、思わず咳込む。
その時、誰かが澪のそばを通り過ぎる気配がした。
澪がゆっくりと顔を上げると、
紫の髪の女性が、まっすぐにカイのもとへ向かっていた。
(……この人……前にも……)
リュシアはカイのもとへ駆け寄り、両手を重ねるようにかざした。
眩い魔力が流れ込み、裂けた肉が少しずつ閉じていく。
澪は息を飲んだ。
「……この人が……カイの傷を治せる、ただ一人……」
カイの瞳が薄く開き、息を吸い込んだ。
まだ、身体は思うように言うことを聞かず、膝がわずかに揺れた。
それでも、彼は歯を食いしばり、どうにか立ち上がる。
視線の先には、澪がいた。
一歩、また一歩。
引きずるような足取りで距離を詰め、カイは澪のもとへ辿り着くと、その手を掴んだ。
そのまま澪の手を引いて、必死に前へと踏み出した。
「今しかない……澪! 扉へ……君の世界へ帰るんだ!」
開かれたままの石造りの扉から、眩い光が揺れていた。
その前に立つカイは、澪だけを映すように真っ直ぐ目を向けた。
「カイ――、カイも一緒に……」
澪の声が震え、喉の奥で言葉が形になろうとした、その瞬間。
カイは苦しみを押し隠すように、いつもの柔らかな笑みをつくった。
そして、澪の頬にそっと手を添える。
「……澪。君の瞳は、本当に……美しいね」
澪は一瞬、息の仕方を忘れた。
胸の奥がかすかに震え、心だけがざわつく。
ただ――涙がこぼれそうになった。
カイはその揺らぎを優しく見つめる。
「……さよなら、澪」
言葉が終わる瞬間――閃光が爆ぜた。
石の檻が破裂し、その隙間から鋭い魔力の刃が放たれた。
リュシアの叫びも、カイの息も、すべて光に呑まれる。
紫の髪が舞い、カイの胸が赤く染まった。
「カイ――!!」
澪の悲鳴が世界を裂いた。
カイは血を吐きながら、最後の力で澪の身体を扉へ押し込む。
「……生きて……」
光の中へ澪を突き飛ばすと──
カイは扉を閉ざし、手を伸ばす。
砕け散れ。
その祈りのような魔力が、扉を破壊した。




