56.星刻の棺
その場所は、氷よりも静かな“無音”が沈んでいた。
背筋のどこかがじわりと凍えるような気配、光も、風も、時間ですら薄く感じる。
まるでここだけが、世界の外側へ切り離されてしまったみたいだった。
「澪、ここが星刻の棺……アストラリオスの眠る場所です」
アゼルの声が静かに響く。
石造りの建物の奥、人を拒むように積まれた岩の壁に囲まれた空間の中央に、“それ”はあった。
澪は言葉を失った。
ドラゴンのような輪郭を持ちながら、
金属の骨組と肉体の脈動が混ざり合った、常識では捉えられない存在。
赤黒い装甲は生き物の鼓動のようにゆっくりと震え、巨大な躯は身を守るように丸まっている。
「……これが?」
かろうじて絞り出した声に、アゼルが頷いた。
「はい。これが古代の魔術兵器──アストラリオス。
帝国は、あなたの――星永の乙女の魂を贄としてこれを復活させようとしているのです」
澪は息を飲んだ。
もう一度その巨大な影を見上げる。
言葉にできない恐怖が、無意識に身体を震わせた。
「時間はそれほどありません」
アゼルの声は微かに震えていたが、その瞳は澪を真っ直ぐにとらえていた。
「もし帝国の者に気づかれれば、すべてが終わってしまいます。
……澪、早速始めましょう。
アストラリオスを、造られる前の“時”へ還すのです」
「わ、私が……これを……?」
澪は自分の手を見つめた。
いつも部活でラケットを握ってきた、それだけの自分の手。
でも今は──この世界を左右する何かを抱えている。
「澪、こうして──アストラリオスに手をかざし、祈るのです」
アゼルが澪の手をそっと導くように持ち上げる。
澪は大きく息を吸い、震えを押し殺してアストラリオスに手をかざした。
そして、目を閉じる。
(……アストラリオスの時よ、戻れ……!)
その瞬間だった。
アストラリオスの巨体が、内側から光に満たされるように淡い白光を放ち始めた。
「……えっ……光ってる……!」
「澪! まだ手を離してはいけません!」
アゼルの声が鋭く響く。
「遥か古代に作られたアストラリオスの“時”を巻き戻すには時間がかかります。もっと……力を込めて!」
「は、はいっ!」
澪は両の手に意識を集め、祈りの言葉を深く心に沈めた。
手のひらが熱を帯び、胸の奥がぎゅ、と痛む。
「……私が、こんな力を使ってるなんて……不思議……」
「当然のことです」
アゼルが静かに言った。
「あなたは白月花に選ばれし“星永の乙女”。
時を操り、人を癒し、大地を癒す──その力でアステリアを守ってきたと、古い記録にあります」
澪は息を呑んだ。
「時を操る……」
「ええ、それに星永の乙女は、生涯でただ一度だけ……
“世界の時間”を巻き戻すことができたと言われています」
「世界の……時間を……?」
「そうです。大地も、生き物も、流れる時のすべて……世界そのものを、一度だけ“過去へ還した”のです」
澪は呆然とした。
そんなにも大きな力を、自分が?
「すご……神様みたい……じゃあ……」
言いかけた、その瞬間。
星刻の棺の石造りの天井が、低く軋むような音を立てた。
砂ぼこりが舞い上がり、崩れた天井の破片の隙間から、“何か”が落ちてきた。
澪の目の前へ、衝撃と共に。
とっさに頭を抱えてしゃがみ込む澪。
その前にすっと影が差し、アゼルが身を投げ出すように立ちはだかった。
砂ぼこりがゆっくりと落ち着き、視界が晴れていく。
そして──澪は息を呑んだ。
「……カイ……!!」
そこにいたのは、いままで見たことがないほど険しい表情のカイだった。
白銀の髪は砂塵にまみれ、衣服は裂け、血の跡すらある。
カイが澪を見つけた瞬間、その鋭い瞳がわずかに揺れた。
「澪……!」
呼ぶ声は、必死で。
息が詰まるほどの安堵がにじんでいた。
澪はアゼルを押しのけてカイのもとへ駆け寄ろうとする。
だがアゼルが慌てて澪の手首を掴み、阻む。
「澪、危険です!」
その瞬間、カイの眉が鋭く跳ねた。
「君、誰?」
声は静かなのに、その一言だけでアゼルの背中に冷たいものが走る。
しかしアゼルは引かず、静かに名乗る。
「第二宮廷魔導士団団長、カイ・ルクレシオ殿ですね。
私はアゼル・ノア=ヴェルン。アステリア神殿の大神官です。
あなたとは何度か顔を合わせたことがあるはずですが……」
カイは無言でアゼルに歩み寄り、
澪の手を掴む指だけを正確に、容赦なく剥がした。
「……そうだっけ? 覚えてないな」
淡く笑い、澪を自分の側へ引き寄せる。
そして、真正面から澪を見つめた。
「澪……無事で……ほんとうに……よかった」
その瞳は、澪の顔を一瞬たりとも離さない。
澪は思わず胸が締めつけられた。
「カイ……! どうしてそんなにボロボロなの……? ケガしてるし!」
澪の声は震えていた。
カイは彼女の頬へそっと手を添えた。
触れる指先が、ほんのわずかに震えている。
「ごめん。君がこの世界にさらわれていたこと……気づいてあげられなくて」
澪は首を振り、カイの手に自分の手を重ねる。
冷たい指先に触れた瞬間──涙がにじむ。
「……カイの手、相変わらず冷たいね。ちゃんと手袋、使ってよね……」
カイは一瞬、目を見開いた。
胸の奥の深いところを、そっと撫でられたような痛みが走る。
澪から贈られた手袋。
彼女が照れながら手渡してくれた夜。
自分がどれほど嬉しかったか。
でも、もう二度と会えないと覚悟して別れたこと。
その全部が、一気に込み上げてくる。
カイは泣き出しそうな顔で、澪を見つめた。
けれど──
再会の温もりに浸っていられるほど、二人に残された時間はなかった。
カイは澪の手をそっと離し、深く息を吐くと、ゆっくりと表情を引き締めた。
「……ゆっくり話してる時間はなさそうだ」
そう呟くと、アゼルの方へ向き直る。
次の瞬間、片手を静かにかざした。
掌に青い光が集まり──空気がびり、と震える。
「な……っ、カイ殿、ちょっと待ってください!!」
アゼルの声が裏返る。
澪も慌ててカイの腕を掴んだ。
「カイ、待って! 何してるの? アゼルさんは私を助けようとしてくれたんだよ!」
カイの掌に宿る光がふっと弱まる。
振り返った青い瞳には、まだ警戒の色が残っている。
「……澪をここへ連れてきておいて、助ける?」
冷ややかに放たれた問いに、アゼルは唇を噛み、必死に言葉を紡いだ。
「私は……アステリア神殿の大神官。
星永の乙女を信仰する者として、澪を“運命から逃がす”ためにここへ来ています!
あなたが澪を救いたいと願うのなら──私は……敵ではないはずです!!」
涙をにじませながら、息を切らすアゼル。
澪も横から、震えた声で続けた。
「アゼルさんは……“モルフェウス”っていう人から私を遠ざけるために、神殿に匿ってくれたの。
それに──私の星永の乙女の力を使って、アストラリオスを破壊するために……“造られる前の時”に戻すために、ここまで連れてきてくれたんだよ」
カイの瞳が、かすかに揺れた。
「アストラリオスの時を……戻す……?」
アゼルが強く頷く。
「そうです!作られる前の姿へ戻すことが出来れば、帝国はもう二度とこれを復活させることはできません。
それはつまり──星永の乙女を犠牲にする理由が、なくなるということ!」
アゼルの声は、必死で、震えていて、けれど確かな信念があった。
カイはしばらくアゼルの目を見つめていたが、やがて静かに手を下ろした。
「……そうか。分かったよ」
けれどすぐに、その表情に影が落ちる。
「でも──僕が今ここに来たのは、最悪のタイミングだね」
かすかに揺れるその声に、澪とアゼルは同時に息を呑んだ。
「僕の動きは、モルフェウスに筒抜けだ。もうすぐここに奴らが押し寄せてくる……アストラリオスを破壊する時間は、もう残されてない」
「そ、そんな──!」
アゼルの声が震える。
「間に合わせるから!」
澪が必死に叫び、ふたたびアストラリオスに手をかざす。
白光が瞬き、祈りの言葉を紡ごうとした、その時。
カイがそっと澪の手を包み込み、その動きを静かに止めた。
「……澪」
呼びかけはやさしく、しかし真剣な瞳で澪を見据える。
「モルフェウスに捕まる前に、君を元いた世界へ返す」
「……元の、世界に……?」
澪の瞳が揺れる。
アゼルが強い調子で口を挟む。
「しかし、彼女を元の世界へ戻したところで、モルフェウスも皇帝も諦めはしません! また異世界への扉を開き、連れ戻されるのでは──」
「それはないよ」
カイはゆっくりとアゼルに向き直る。
その青い瞳には揺るぎがなかった。
「異世界を繋ぐ扉は、モルフェウスの命令で僕が作った。
あの扉を造れる魔導士は、他にいない。……だから」
澪の手を握る指に、そっと力がこもる。
「君が扉をくぐったら──僕がこちら側から、扉を壊す。
そうすれば奴らは、二度と澪の世界に入れない」
アゼルは息を呑み、静かに、深く頷いた。
「……確かに。それなら……」
そのときだ。
入口の向こうから、岩が砕けるような破壊音が轟いた。
空気がびり、と震え、魔力の匂いが強く流れ込んでくる。
「……もう、来たみたいだ」
カイは一歩前に出て、澪の前に立つ。
その背中には迷いも震えもなかった。
「少しくらい足止めにはなります。ここは私が──!」
アゼルが声を張る。
「カイ殿、澪を……早く!」
アゼルの両手が強い光を帯びる。
おそらく、命を賭けた時間稼ぎになるだろうことは、誰よりもアゼル自身が分かっていた。
澪は叫びそうになるが、カイが振り返り、強く首を振った。
「……行こう、澪」
澪の心臓が跳ねる。
その瞬間、入口の向こうで蒼い光がゆらりと滲み出した。




