55.追えない背中
石の床は冷たく、世界の音が遠い。
カイは癒されぬまま、ずるりと引きずられるように牢へ投げ込まれた。
背中を打った痛みすら、もうよく分からない。
意識の縁が白く揺れ、世界が上下も分からないほどに霞む。
それでも──
胸の奥でひとつだけ、鮮明な名前が浮かんだ。
鉄格子へと手を伸ばし、爪が割れようと構わず掴む。
魔力を込めれば、ただの鉄など容易く砕ける。
そのはずなのに──体中に痛みが走り、視界が滲む。
「……っ、く……そ……っ……」
這うように格子を揺らした瞬間、
「団長! ダメです、本当に死んでしまいます!」
澄んだ声が、牢の奥の闇を裂いた。
リュシアがいた。
震える手で格子を押し開け、カイへと駆け寄る。
彼女が手をかざすと、淡い金色の光が溢れた。
それは川底の泥を洗う清流のように、カイの裂けた肉体を癒していく。
倒れた身体がゆっくりと呼吸を取り戻す。
痛みが薄れ、視界がわずかに明るくなる。
「……リュ……シア……
モルフェウスの……命令を……破っていいの……?
君も……消されるよ……」
弱く、掠れた声だった。
だが、リュシアは首を振った。
その瞳は涙で揺れながら、それでいて確かな強さを宿している。
「……消されるなら、それで構いません」
リュシアはそっと言った。
声は震えていたが、その決意だけは揺らがない。
「団長……あなたが、ここで死んでしまう方が……私には、ずっと耐えられません」
淡い金の光がさらに強まり、裂けた皮膚が閉じ、青黒い痣が消えていく。
魔力の流れが整うたび、カイの呼吸が深くなった。
リュシアはそれを見届けながら、
胸の奥の痛みにそっと蓋をした。
──分かっている。
この人の心は、どこを探しても自分には向いていない。
牢に運ばれる直前、彼が壊れた声で呼んだ名前。
あの少女こそが、彼を求めさせる唯一の存在。
羨ましさが胸を刺した。
苦しくて、息が詰まりそうだった。
けれどその痛み以上に強く、ひとつの想いが残った。
──それでも、助けたい。
誰よりも深く傷つき、孤独の底で生きてきたこの人を。
あの少女のもとへ辿り着けるように。
魔法を放つ手が震えた。
それは恐怖ではなく、抑え込んだ感情の震えだった。
「団長……大丈夫です。あなたはまだ……立てる」
リュシアの声は掠れていた。
「あなたが向かいたい場所へ、行けるように……私はその背中を支えます。
たとえ、この先どうなっても」
光がふっと瞬き、やがて収束していく。
癒やしの魔力が完全に満ちると、カイの傷はほとんど消えていた。
額に光る汗を拭い、リュシアは静かに息を吐いた。
***
モルフェウスは、団長室の机で、静かに帳簿を閉じたところだった。
そこへ、蒼ざめた顔の部下たちが駆け込んできた。
「も、モルフェウス様! カイ・ルクレシオが──脱獄いたしました!」
慌てふためく声を、モルフェウスは指先ひとつ動かさず受け流した。
「……分かっておる」
淡い光を放つ蒼石の腕輪に目を落とし、静かに笑う。
「今回は、何としても私に従わぬ気らしい……せっかく私が作り上げた最高傑作の傀儡だというのに。
なるべくなら壊したくはなかったが……仕方あるまい」
椅子が軋み、ゆっくりと立ち上がる。
青の瞳が暗い愉悦を宿し、窓の向こうを見つめた。
「逃げるのなら……追う楽しみも増えるというものだ」
***
牢獄を出て塔の外へ踏み出すと、まだ夜は深く、雪まじりの風がカイの体を打った。
カイはフラつく足取りで外壁に凭れた。
癒されたはずの身体は、まだ奥底に痛みを抱えていた。
魔力の流れは途切れそうに不安定だ。
「……娘の居場所を探りましたが……分かりませんでした……」
リュシアの声は震えていた。
「……いい。澪が連れて行かれるなら……あそこしかない」
カイは空を見上げ、ゆっくりと歩き出す。
「待ってください、団長! 私も行きます!」
「──いや、僕一人で行く」
鋭い拒絶ではなく、乾いた囁きだった。
「そんな身体で……! 魔力もまだ安定していないのに……!」
「……君はもう帰れ。
どうせ、僕たちの動きなんて……モルフェウスには全部筒抜けだ」
「それなら尚更! あなたを癒せるのは、私だけなんです!!」
リュシアの叫びは、切なさと必死さが混じって揺れていた。
だがカイは振り返らない。
遠くを見たまま、静かに告げる。
「……足手纏いだよ」
その一言だけ残し、カイは空へと跳び上がった。
光の尾を引き、帝都の夜を駆け抜けていく。
「待って……団長……!」
伸ばした手は、虚空を掴むだけだった。
雪まじりの風だけが、彼女の頬を打っていた。
カイが消えた空を見上げ、リュシアはそっと瞼を閉じる。
――また、置いて行かれる。
初めて彼を見たあの日から、ずっとあの背中だけを追ってきた。
追いつけるはずのない歩幅でも、それでも離れたくなくて、ただ必死に走り続けた。
副団長になれたのは努力の結果ではあるけれど、半分は願いだった。
“この場所なら、あなたのそばにいられる”その望みだけで、ここまで来た。
貼り付けられた笑顔の仮面の下に、彼が誰にも見せない冷たい素顔があることを、自分だけは知っていると思っていた。
……いつか、選んでくれるのではないかと、そんな甘い期待すら抱いていた。
でも、気づいてしまった。
他の女たちから向けられる視線に、彼がどれほど深い嫌悪を抱いているのかを。
この気持ちは決して伝えるべきではない。
伝えれば、彼を傷つけるだけだから。
伝えなくても、傷つくのは自分だけだから。
それでも――
“あなたの一番近く”という立場だけは、どこかで誇りのように感じていた。
なのに。
そんな私がどれだけ望んでも手に入れられなかった場所を、あの娘は、たった百日でさらっていった。
胸が焼けるように痛い。
悔しくて、情けなくて、苦しくて――どうしても手放したくなかった。
けれど。
彼があの娘を望むのなら……
あの娘だけが、彼を救えるのなら……
望みを叶えてあげたい。
私は、あなたの孤独を包むことはできない。
どれほど近くに立っても、あなたの闇には触れられない。
だからせめて。
「……どうか、辿り着いてください、団長……あなたが本当に望む場所へ……」
声は夜の雪に溶け、誰にも届かない。
ただ彼の背中だけを追い続けた少女の祈りが、静かに、深い闇へ落ちていった。




