54.暗闇の底に差し込んだ光
──痛い。
けれど、この痛みは怖くない。
ずっと昔から、僕の世界はこんな調子だった。
生まれた時から、外へ出ることを許されなかった。
窓もない部屋。魔力を遮断する結界。
世界はあの四角い空間だけでできていて、そこに訪れる人間は二人だけだった。
ひとりは、僕の身の回りの世話をする侍女。
もうひとりは、白銀の髪の女。
その女が、僕に魔術を教えた。
気づくのに時間はかからなかった。
彼女が僕の母だということに。
……でも、だからといって何が変わるわけでもなく。
母は母親らしい言葉をかけることもなく、視線すらほとんど合わせないまま、淡々と魔術だけを教え、沈黙の中で部屋を往復するだけの日々。
寂しいとは思わなかった。
世界はそういうもので、僕もそういう存在なんだと思っていた。
五歳の頃だ。
いつしか、母が僕の部屋を訪れる事はなくなっていた。
侍女に連れられ、初めてあの部屋を出た日。
僕はベッドに横たわる母の姿を見て、ああ──もうすぐ死ぬんだと理解した。
「お母様に……何か一言でも」と侍女が言った。
僕は言われるままに、“お母様”と呼びかけた。
その瞬間。
母は、閉じていた瞳を見開き、僕を睨みつけた。
『違う……お前の母ではない……違う違う……こんな化け物……産みたくなかった……私はお前の母では、ない』
そう言って──息を引き取った。
母であることを否定しながら。
その日の夜、黒髪の男が僕の部屋を訪れた。
今日から自分がお前の師になる、と。
『お前の力は強い。制御できなければ、人が簡単に死ぬ。しかし子供のお前に制御は難しい、ゆえに──お前の魂を半分、私に預けなさい』
それが呪いの契約だとも知らず、
五歳の僕は頷いた。
その瞬間、僕はあの男に逆らうことができなくなった。
命じられれば殺し、
命じられれば戦い、
帝国のために帝国のためだけに魔力を使ってきた。
成長するにつれ、自分の血汚れた手に戸惑い、命令を拒否することもあった。
その度に、あの身を焼かれるような痛みを味わされ、結局は男の言う通りにするしかなかった。
第二宮廷魔導士団の団長になった頃には、反抗する気力もほとんど残っていなかった。
仮面をつけるように従順を装い、褒められ、飾られ、利用され、消費されていく日々。
──その頃には、僕が“恐れられている”ことも、完全に自覚していた。
戦場では、僕ひとりで敵軍を殲滅できた。
その力を目にした味方の兵は、感嘆より先に一歩、距離を取った。
王宮でも、貴族たちは笑顔を貼りつけながら、決して近寄りすぎないよう気を払った。
帝都の住人でさえ、子どもに「道の端へ寄れ」と言い聞かせた。
腫れ物に触れるように。
敬意という名の壁で静かに隔てながら。
僕はそのすべてを、ひどく静かな気持ちで受け入れていた。
誰にも触れられず、誰にも触れようとせず──
それが、僕が生きてきた世界の形だった。
その頃だ。
いつからか、女たちが僕に甘い声をかけるようになった。
最初は理由が分からなかった。
けれど、ある日ふと気づいた。
──自分が、“少しばかり”他の者より整った顔立ちをしているのだ、と。
たったそれだけの理由で、色香をまとった視線が寄ってくる。
笑顔の裏で、互いに牽制しあい、陥れ合う女たち。
僕が愛を返さないと悟ると、露骨に不機嫌になり、時には僕の周囲の者たちを貶めようとさえした。
そうした感情の渦を、僕はどこか遠い場所から眺めていた。
彼女たちが欲しいのは“僕”ではなく、“僕に愛される自分”なのだと気づいた瞬間から。
それ以降は、笑顔でかわすだけのことだった。
誰にも心を開かず、誰の心にも触れないように生きた。
そんな中、星詠みが告げた。
異世界に星永の乙女が現れる、と。
僕は命令通り、星に姿を変え、空を漂い、何年も異世界で星永の乙女を探し続けた。
戦が始まれば呼び戻され、終わればまた空へ放り出される。
そのたびに、あの呪いの意味を思い知らされた。
傷ついても、自分では癒せない。
魔力をどれだけ注いでも、痛みはただ積み重なるばかりで、僕の身体を元に戻せるのは──“選ばれた部下”ただ一人だけ。
それは逃亡を防ぐための鎖であり、同時に、僕をいつでも“終わらせる”ための保険でもあった。
魂は腕輪に縛られ、身体は治癒の呪いに縛られ、僕は命令から一歩も離れることができなかった。
そうしてすべての自由を奪われた先で、いつしか僕は──何かを望むことすら忘れていた。
心を開く相手などひとりもいない。
任務を処理し、生き延び、また次の命令を待つ。
その繰り返しの中で、時間だけが淡々と通り過ぎていった。
まるで、冷たい水底に沈められたまま動くことを忘れた、無機質な人形のように。
でも、そんな世界に静かな“揺らぎ”が落ちてきた。
澪──僕が想定していなかった色を持つ少女。
深い水底に沈んでいた僕の底へ、静かに射し込んだ、たったひとつの光。
君を思うたびに生まれる“あの感情”の名を、僕は初めて知った。
あの日から、世界がこんなにも眩しい場所だと……初めて気づいたんだ。




