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53.軋む鎖

 帝都の夜が、急に深呼吸を忘れたように静まった。


 第一宮廷魔導士団の巨大な塔の前で、わずかに空気が揺れた。

 揺れは瞬時に膨れ上がり、塔全体を震わせるほどの“魔力の圧”へと変わっていく。


 風が逆巻き、石畳が低く唸る。

 その中心を、ひとりの影が歩いていた。


 白銀の髪。

 人間離れした気配。

 そして――穏やかな仮面を捨てた、本来の彼が歩いてくる。

 抑え込んでいた魔力が容赦なく溢れ、空気そのものが震えていた。


 カイ・ルクレシオ。


 彼の足元では石畳が低く震え、まるで彼の“怒り”と同調して脈打っているようだった。

 歩くたび、白銀の髪が魔力の風に揺れ、その瞳は氷花のように冷たく研ぎ澄まされている。

 その姿は、ただ“目的のために一直線に進む刃”そのものだった。


 廊下にいた魔導士たちは、彼を見た瞬間、心臓を直接握られているような緊張感につつまれた。

 誰一人として声を上げられない。ただ息を呑み、壁際へと身を寄せた。


 そんな中で、ひとりだけ踏みとどまる男がいた。


 第一宮廷魔導士団・副団長、アウレリウス・ケイン。

 金髪を乱し、困惑を隠しきれぬ顔でカイへ駆け寄る。


「カ、カイ様……!? ど、どうされたのですか……!」

 返答はない。沈黙が返事だった。


 アウレリウスはなおも食い下がる。

「どうか落ち着い──」


 その瞬間。カイの視線が横に流れた。

 ただそれだけで、空気が焼けた。


「……用があるのは“先生”だけだよ。死にたくないなら、どいて?」


 その声は静かだった。

 だがその静けさこそが、底なしの威圧を孕んでいた。


 アウレリウスは喉を締めつけられたように息を呑む。

「……っ」


 体をのけ反らせると、カイに背を向け、走り去った。


 


 ***



 

 団長室の扉前で、アウレリウスは荒い息を吐き、そのままノックも忘れて飛び込む。

「も、モルフェウス様!! カイ・ルクレシオが……ただならぬ様子でこちらに向かっております……!」


 その声を遮るように、背後で扉が静かに開いた。

 冷気が吹き込み、室内の炎がわずかに揺れる。


 アウレリウスの背筋が跳ねた。


 机に向かっていたモルフェウスは、ゆるりと顔を上げる。

 その手元では蒼く脈動する腕輪が妖しく光っていた。


 モルフェウスは片端だけ唇を上げる。

「許可も得ずに師の部屋へ入ってくるとは……相変わらず無礼な奴だな」

 

 軽く、愉しげで、どこか冷たい声。


 扉口に立つカイは無表情のまま言った。

「先生──彼女を返して?」


 その声が落ちた途端、空気は氷よりも冷たく沈む。

 モルフェウスは青の瞳を細め、喉の奥でくつくつと笑った。


「来るとは思っていた、だが……ここまで取り乱した“お前”を見れるとは思わなかった。実に面白い」


 

 次の瞬間──カイの魔力が爆ぜた。


 部屋の空気がドン、と波打ち、床が低く震える。

 

 アウレリウスは肺が焼けるような圧力に顔を歪めた。

「……っ! な……何という魔力……!」


 モルフェウスは片手を軽く掲げ、淡々と言う。

「アウレリウス。消し炭になりたくなければ退け」


「っ、は、はい!!」


 アウレリウスは転がるようにその場から逃げ出し、扉が閉まった。


 残された部屋は、ひときわ静かだった。

 静かすぎて、音が吸い込まれていくようだ。


 モルフェウスは指を鳴らした。

 乾いた音は、室内の魔力に呑まれてすぐに消える。


「……さて、話の続きだったな。

 何の件だったか……ああ、そうだ。

 おまえが妙に執着している――あの“澪”とかいう小娘のことだったか」


 青の瞳が細められ、愉悦を含んだ笑みがゆっくりと浮かぶ。

 

「心配はいらん。あの娘なら、この世界にいるよ。……星永の乙女としてな」


 その一言が落ちた瞬間、室内の時間が止まった。

 カイは目を細め、静かにモルフェウスを睨みつけた。


 その沈黙の奥で、魔力がじわりと膨れ上がる。

 深い水底から圧がゆっくりと浮上してくるような……静かな、しかし逃げ場のない威圧。


 床石の下を縫う魔力の脈が、小さく震えを打つ。

 空気が震え、壁がわずかに軋んだ。


 モルフェウスはその“静かな怒り”を真正面から受けながら、愉悦を押し隠そうともせず眉を上げた。


「おや……どうした、カイ。魔力がひどく揺れているぞ。

 あの娘が“星永の乙女”として選ばれたこと……よほど胸に障ったらしいな」

 蒼い瞳が細められる。


「そういえば――お前はあの娘のことを“星永の乙女ではない”と報告していたな」

 そういって薄く笑う。


「よいよい、誰にでも判断の誤りはある。水に流そう……今回だけはな」


 静謐の奥に毒がある声音。

 その言葉が落ちた瞬間、カイの瞳の奥から温度がすっと消え、空間そのものが軋みを上げ始めた。


 カイは、わずかに震える空気の中で、静かに言葉を落とした。

「……彼女が星永の乙女だろうと、そうじゃなかろうとどうでもいい。今すぐ返してよ先生」


 モルフェウスの唇に、皮肉げな笑みが浮かんだ。


「ふむ。それは帝国への反逆と受け取ってよいのか?」


 カイは、冷えきった眼差しでモルフェウスを射抜き、淡々と告げる。


「僕が帝国なんてどうでもいいと思ってること、先生は知ってるよね?

 彼女をアストラリオスの贄には、絶対にさせない」


 モルフェウスは喉の奥で小さく笑い、青い瞳を細めた。


「……まるでおもちゃを取り上げられた子どものような顔をしているぞ。

 お前が他人にそこまで執着を見せるとはな……」


 挑発にも似た声音。

 だがその裏には、確かな興味が滲んでいた。


 カイは一歩踏み出し、短く息を吐くと、静かに首を振った。

 その瞳には怒りではなく、決意の熱が宿っていた。


「……彼女は、おもちゃなんかじゃないよ、先生。

 ……この出口のない暗闇の中で、僕が初めて見つけた“光”だ」


 声は乾いているのに、不思議なほど真っ直ぐだった。


「僕は彼女を守る為なら、全てを破壊したってかまわない。だからさ、今すぐ彼女を返してよ」


 カイが薄く笑いながらモルフェウスに近づく。

 纏った魔力はその力を増し、今にもモルフェウスを押しつぶさんとしているかのようだった。


「ぐっ……その魔力、更に力を増したな。流石は私の弟子だ。だがカイよ……お前が私に逆らう事など出来ないことを知っているだろう」

 

 モルフェウスはそういうと、左腕の蒼石の腕輪を目の高さに掲げ、その上に静かに手をかざした。


 瞬間、青白い閃光が走り──


 雷に貫かれたような衝撃がカイの全身を引き裂いた。

 膝から崩れ落ち、頭を抱え、床を掴む指が震えている。


 「……っ、ぐ……あ……っ!」


「くっくっく、懐かしいだろうその痛み。最近のお前は従順だったからな――忘れていたであろう」


 モルフェウスの指先が蒼石に触れるたび、閃光がカイの体を走り、喉から押し殺した声が漏れる。


「っ……が……っ……!」


「どうした? 先ほどの威勢は。……結局、お前は何ひとつできない。従っていればいいのだ、私に」


 カイは床に爪を立てながら、それでも倒れきることを拒むように、必死に息を吸い込む。


「……っ……ぅ……っ……!」


 痛みで視界がにじむ。

 世界の輪郭が揺れ、耳鳴りが空気を支配する。

 立ち上がろうとしても、魂が鎖で引きずり戻されるようで足が動かない。


 その瞬間――


「モルフェウス様! やめてください!」


 扉を押し開けてリュシアが駆け込んだ。

 蒼ざめた顔のまま、倒れ込むカイへ手を伸ばす。


「団長……! 今、治癒を──」


「ならん。」


 その一言で、リュシアの指先が空中で固まった。

 モルフェウスの視線は冷えきっており、そこに慈悲の影はひとつもなかった。


「こやつには、もう一度自分の立場を思い出させてやらねばならん。星永の乙女が見つかった以上、お前の存在意義などただひとつ。」


 ゆっくりと、蒼石の腕輪へ指を這わせる。


「この帝国へ“殺戮”という名の貢献をすることだ。

 しかし……うむ、そうだな。

 アストラリオスさえ手に入れば、お前の化け物じみた力も──もはや必要ないのかもしれぬ」


 青白い光が脈打ち、カイの身体がまた震えた。

 魂の奥に触れる痛みに、喉の奥からかすれた息が漏れる。


「従えぬのであれば……このまま魂を砕いてしまおうか」


 腕輪の蒼石をやさしく撫でるように触れた瞬間、

 カイの身体が弾かれるように硬直し、呻き声が漏れた。


「お辞めください!」

 リュシアは叫ぶように声を上げた。

「彼の力は、この帝国にとって必要です! 今ここで壊しては──」


 モルフェウスは嘲るように、少し顎を傾けた。


「必要……? ふむ。

 こやつほどの強大な力は、従順であればこそ価値がある。

 逆らう者など──ただの諸刃の剣にすぎんよ」


 蒼石を指で弾くたび、青の火花が散り、カイの身体が跳ねる。


「こうして魂を縛り、リュシア──

 “お前以外の治癒を受け入れられぬ呪い”まで施してやった。二重に鎖を巻き、逃げ場さえ奪ったうえで……」


 ゆっくりと笑みが深くなる。


「なお反抗するような駒に、果たして“傀儡としての価値”があるのか?」


 その言葉に、リュシアの顔が蒼く凍りついた。

 床に伏すカイの喉から、かすかに苦痛の息が漏れる。

 床に伏すカイの喉から、ひゅ、と途切れた息が漏れる。

 痛みに震える身体がわずかに痙攣し、

 かすれた声が、ほとんど音にもならないほどの細さでこぼれた。


「……み……お……」


 求めるようでも、祈るようでもない。

 ただ、壊れかけた意識の奥から自然に溢れ出た名前。


 リュシアの胸が締めつけられ、

 モルフェウスの表情からは興味の色が消えない。


 次の瞬間、カイの意識は深い、冷たい闇の底へと沈んでいった。

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