52.聖域に消える声
アステリア神殿――白い石で築かれた広大な神殿は、昼の光を受けて淡く輝いていた。
天井近くを走る水路から絶えず水が流れ落ち、どこにいても清らかな水音が響く。
その音が、まるで祈りの調べのように静かに澪の胸にしみていった。
神殿の奥へと進む澪の姿に、神官や巫女たちが足を止める。
誰もが驚きと戸惑いを隠せずにアゼルへ視線を向けた。
「アゼル様……この方は?」
問われたアゼルは、穏やかに微笑んで答えた。
「この方こそ――星永の乙女、澪です。わたしたちが代々信じてきた、アステリアの聖女に他なりません」
その言葉が落ちた瞬間、空気が揺れた。
神官たちは一斉にひざまずき、「聖女様……」「星永の乙女様……」と口々に祈りの言葉を捧げる。
涙ぐむ者すらいた。
澪はただ戸惑って立ち尽くした。
目の前の人々の姿に、胸の奥でざらりとした感情が動く。
(……この人たちにとって、星永の乙女って、それほどまでに特別な存在なんだ……)
アゼルは静かに一歩前へ進み、集まる神官や巫女たちに視線を巡らせた。
「――皆、聞きなさい」
その声は柔らかかったが、響きは石壁の奥まで届いた。
「しばらくの間、彼女はこの神殿で匿います。
外部の者には、決してその存在を口外してはなりません。
星永の乙女の安寧は、わたしたち全員の誓いにかかっているのです」
神官たちは一斉に頭を垂れた。
厳粛な沈黙が降り、澪は思わず息をのむ。
白い衣が床を擦る音だけが、ゆっくりと広がっていった。
「先ほどの者たちにとって、“星永の乙女”は信仰の象徴です。」
アゼルの声が、流れる水音の向こうから穏やかに届いた。
「彼らは、乙女こそ神に最も近い存在――救済そのものだと信じています。
その乙女をアストラリオスの贄とするなど、到底受け入れられるはずがありません。
……ですから、その真実を知るのは、私を含めた神殿上層部のごく一部の者のみです」
澪は立ち止まり、アゼルの横顔を見上げた。
「じゃあ……どうして神殿は、帝国に協力してるんですか?」
アゼルは一瞬だけ足を止め、静かに澪の方へ振り返った。
彼は小さく息を吸い、澪へ向ける声だけをそっと柔らかくした。
「……もう二度と、あの悲劇を繰り返さないためです。
帝国の手によって命を落とした“星永の乙女”――彼女のような犠牲を、次の乙女に背負わせるわけにはいきません。
だから私たちは、従順を装っています。帝国に協力しているように見せかけ、その実、星永の乙女が再びアストラリオスの供物にされないよう、密かに動いているのです」
澪は返す言葉をなくし、ただアゼルの後ろ姿を目で追った。
水路の淡い光が彼の白衣をふちどり、その歩みのたびにかすかに揺れた。
やがて澪は神殿の奥、静かな一室へと案内された。
白い壁に淡い金の文様が刻まれ、窓辺には花が飾られている。
小さなテーブルと寝台があるだけの、穏やかで落ち着いた部屋だった。
アゼルは澪を振り返り、柔らかな声で言った。
「ひとまず、ここで過ごしてもらいます」
澪は少し身を固くして尋ねる。
「さっき言っていた……覚醒の儀を行うまで、ですか?」
アゼルは一瞬だけ沈黙し、静かに澪へ向き直った。
「――あれは嘘です」
「……え?」
澪が目を瞬かせる。
「ええ。あなたをこの神殿に匿うための方便です。
あなたはすでに“星永の乙女”として覚醒していますよ」
「そんな……あんなに自然に嘘つけるなんて……アゼルさん、嘘つくの慣れてません?」
アゼルは苦笑を浮かべた。
「否定はできませんね。立場上、そういう場面も多いので」
そして、静かに表情を引き締めた。
「この神殿にあなたを連れてきたのは――あなたをどう守るか、そのための道を伝えるためでもあります。
そして同時に、あなたがアストラリオスの贄にされるまでのわずかな猶予を稼ぐためでもあるのです。
いいですか、澪。よく聞いてください」
アゼルはまっすぐに澪の目を見つめた。
「帝国は“星永の乙女”の力を、癒しや再生の魔力だと思い込んでいます。
けれど本当は違う。その本質は“時”そのもの。
あなたの力は、世界の理を巻き戻す力です。
このままだとあなたは《星刻の棺》――アストラリオスの眠る場所へ連れて行かれ、その魂を兵器の心臓として封じられるでしょう。
だからこそ――その前に“時の力”でアストラリオスそのものを、造られる前の“時”へ還すのです。
それが叶えば、帝国は二度とあの兵器を作り出すことはできない。
そして“星永の乙女”を犠牲にする理由も、永遠に失われる。
私は……このことを伝えるために、あなたをここへ導いたのです」
澪は息を詰め、しばらく言葉を失った。
「私が……時を戻して、アストラリオスを――破壊する……? そんなの、できるわけ……」
アゼルは穏やかに、それでも確かな声で言った。
「一時的に逃げられたとしても、帝国から逃げ切ることはできないでしょう。
――あなたを救う方法は、これしかないのです」
澪の胸の奥に、ふとひとつの名前が浮かぶ。
「……カイなら、もしかして――」
小さく息をのむ。
「アゼルさん……カイに会うことはできませんか?」
アゼルは短く目を伏せ、やがて静かに首を振った。
「彼はアストラリオスの贄とするために、“星永の乙女”を見つけ出す使命を負った観測者です。
――あなたが知っている彼と、宮廷第二魔導士団団長カイ・ルクレシオは、同じではないのですよ」
その言葉に、澪の胸がきゅっと締めつけられる。
唇をかすかに噛み、視線を落とした。
「……たとえ、そうだったとしても」
声は震えていたが、確かな熱を帯びていた。
「カイが、私の魂を犠牲にするために近づいたんだとしても……」
つめたいのに、握ると安心できたあの手も、
一緒に囲んだたわいもない食卓も、
最後の日、頬を伝ったあの涙も――
全部、本物だった。
「百日間、一緒に過ごしたあの時間の中にいた“彼”が――私は、本物のカイだと信じたい」
澪は服の上から、カイにもらったネックレスをぎゅっと握りしめた。
指先に触れる小さな冷たさが、胸の奥でじんわりと熱を帯びていく。
アゼルはその様子を見つめ、静かに頷いた。
「……あなたが彼を信じたいと思う気持ちは、痛いほどわかります。
けれど――私としては、今の彼をあなたに会わせられるほどには、まだ信用しきれないのです。
どうか、理解してください……」
***
アゼルが部屋を去ると、静寂が降りた。
扉の向こうに遠ざかる足音が消えると、残ったのは――水の滴る音だけ。
澪はベッドの端に腰を下ろし、首元のネックレスをそっと手に取った。
青い雫型の飾りが、淡い光を受けて静かに瞬いている。
(……カイ)
名前を呼ぶ声は、喉の奥で途切れた。
現実とは思えないこの状況の中で、それでも――この世界のどこかに彼がいる。
そう思うだけで、不思議と不安は薄れていった。
ふと、胸の奥に父の顔が浮かぶ。
今ごろきっと心配しているだろう。
あの温かい食卓、何気ない会話、帰りを待ってくれる家――すべてが遠い。
(どうにかして、帰らなきゃ……)
けれど今は、焦ってもどうにもならない。
アゼルの言う通りにするしかない――それが、唯一の道。
澪は小さく息を吸い、ネックレスを握りしめた。
青い光が指の隙間で淡く揺れる。
まるで遠い空の星が、彼女に寄り添うように瞬いているかのようだった。




