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50.星の記憶

 アゼルは水盤の上に花をひとつ浮かべるたび、静かに言葉を紡いだ。

 声は澪にだけ届くほどの小ささで、それでも一語一語が重く響いた。


「……私が神官を務めるアステリア神殿は、もとは“星永の乙女”を聖女として信仰するアステリア王国にありました。

 しかし数百年前、帝国の侵略によってその国は滅びました。

 豊かな土地も、誇り高い心も、すべて奪われ……残されたアステリア人たちは奴隷のように扱われたのです」


 澪は息を呑んだ。

 その穏やかな口調の裏に、長い痛みの影が感じられた。


「それでも人々は信じ続けました。

 いつの日か“星永の乙女”が現れ、彼らを救ってくれると――それだけを心の礎に、生き延びていたのです」


 アゼルは新たな花を指先に呼び出す。

 花弁が水に触れた瞬間、さざ波が広がった。


「そして、ある日――一人のアステリア人の少女が“白月花”に選ばれたのです。

 花は黄金に咲き誇り、彼女は“星永の乙女”と呼ばれるようになりました。

 乙女は“時”を司る力を持ち、その祈りによって、傷ついた者の“時”を過去へと還し、

 倒れた者たちを再び立ち上がらせたのです。


 死者すら息を吹き返し、失われた民が再び剣を取る――。

 帝国はその光景に戦慄しました。

 どれほど焼き払っても、倒しても、アステリア人は何度でも立ち上がる。

 “時の癒し”の力こそが、帝国にとって最大の脅威となったのです」


「時の癒し……それで、アステリアの人たちは助かったの?」

 澪が、かすかな希望を込めて尋ねる。


 アゼルは首を振った。

「一時的には。

 帝国は星永の乙女の力に恐れをなし、アステリア人の迫害をやめ、“彼らを帝国の民と同じように扱う”と約束しました。

 人々はようやく平穏を取り戻したかに見えました……しかし――」


 その声がわずかに低くなる。

「帝国は、“星永の乙女”の力を狙っていたのです。

 ――その魂を利用するために」


「魂を……利用するため?」


「帝国は勢力を拡大するため、古代の魔術兵器アストラリオスを復活させました。

 それは、世界の理をねじ曲げるほどの力を持ちながら、ただひとつ――“時間”を制御できずに沈黙していたのです。

 どれほどの魔導士が魔力を注いでも、アストラリオスはすぐに止まりました。まるで“永遠”そのものを拒むように。


 そんな時、彼らは見つけたのです。

 時の流れそのものを司る聖女――“星永の乙女”を。


 帝国は乙女の魂こそが、失われた“時の歯車”を動かす鍵だと信じました。

 そして彼女を贄としてアストラリオスに封じたのです。

 乙女の魂を奪い、永遠に止まらぬ兵器の心臓に変えた。

 その力によって帝国は、周辺諸国を次々と支配していきました」


 澪の顔が青ざめる。

「……そんな、ひどい……」


 アゼルは手を止めず、静かに頷いた。

「ええ。

 しかし神々は、百年もの間アストラリオスに縛られながらも、なおアステリア人のために祈り続けた乙女の魂を憐れんだのです。

 終わりのない孤独の中で、それでも光を失わなかった彼女の祈りが――あまりにも痛ましく、美しかったのでしょう。

 そして、神々はその魂を解き放った――」


 花々が水面に並び、淡い光を放っている。

 澪はそれを見つめながら、かすかに唇を震わせた。


「……じゃあ、帝国は?」


「滅びはしませんでした。すでに、誰にも止められぬほどの力と支配を手にしていましたからね」

 アゼルは苦く笑う。

「むしろ、さらに狡猾になったのです。

 帝国は“アステリア神殿”を建て、逃げ延びたアステリア人を再び集めました。

 そして――新たな“星永の乙女”を見つけ出すために、そのすべてを監視下に置いたのです」


 アゼルは水盤の上に浮かぶ花々を一瞥し、声をさらに落とした。

「――しかし、神々からの呪いを受けたこの地には、もう二度と星永の乙女が産まれることはない。

 あの百年の代償として、神々から与えられた罰なのです」


 「しかし――星々は動き、時折、別の世界に乙女の生まれる予兆を告げることがある。今回、星のお告げは“他の世界に乙女が現れる”と告げた。――そう、君の世界に」


 澪は短く息を漏らす。胸の中で、何かがきしむ音がした。

「じゃあ、もし私が“星永の乙女”だったら……アステリアの人たちと一緒に、帝国を倒さなきゃいけないんですか?」


 その問いに、アゼルはふっと吹き出した。静かな笑いは、少しだけ優しかった。

「あなたは、考え方がずいぶん激しいね」


 澪がきょとんとするのを見て、アゼルは少し身を寄せて続ける。

「アステリア王国が滅んでから、もう何百年も経っている。今の帝国内にも、アステリアの血を引く者は多い。彼らが表向きに迫害を受けることは、ほぼないに等しい。だから、神殿の誰一人として“帝国を潰して復讐を”などとは考えていないのですよ」


 澪の表情に安堵の色が差すのを、アゼルは見逃さない。

「私たちが望むのはただ一つ――もし乙女が現れたとしても、決して《アストラリオス》の餌にされぬようにすることだけ。過去の悲劇を二度と繰り返させないために。

 乙女の力は尊く、しかし利用されれば世界を滅ぼす。だからこそ、私たちは守り、“贄”にされることだけは防ぎたい。それが、私たち神殿の切実な願いなのです」


 澪は静かに頷いた。水面の花たちがほんのわずかに揺れ、二人の間に新しい理解が流れ込んだ。


 澪は息を詰めるように言った。

「でも待って。カイは――私を“星永の乙女”じゃないって言ってたって……。

 あ、カイっていうのは、えっと――」


 アゼルは穏やかに頷いた。

「ええ、存じております。第二宮廷魔導士団団長――カイ・ルクレシオ殿ですね」


「……カイのこと、知ってるんですか?」

「もちろん。帝国でもっとも恐れられ、そして崇められている魔導士です。冷徹にして、情を持たぬ観測者――人々はそう呼んでいます」

 

 澪の顔が曇る。

「……冷徹で、無情……?」

 胸の奥で、何かがきゅっと痛んだ。

「私の知っているカイは……誤解されやすいけど、そんな人じゃないです」


 アゼルは少し目を伏せ、ため息をつく。

「……ですが、彼は本当の目的を隠して、あなたに近づいたのですよ?」


「それは……」

 澪は視線を落とし、言葉を探すように指先を握る。

「……きっと理由があったと思うんです……私はちゃんとカイから理由を聞きたい」


 アゼルのまなざしに、一瞬だけ憐れみの色が混じる。

「――そうですか」


 けれどその瞳の奥では、別の思考が動いていた。

(……カイ・ルクレシオが“星永の乙女ではない”と報告したのなら、白月花はすでに枯れているはずだ。

 あの方が、理由もなく帝国に虚偽の報告をするとは思えない。

 となれば、この娘は本当に“乙女ではない”のだろう。


 ――だが、ではなぜ。

 モルフェウス殿は、わざわざ異界に干渉し、この娘を連れて来たのだ?)


 しばし沈黙が落ちたのち、アゼルは静かに立ち上がった。

「……では、確かめましょう。これより“白月花の儀”を執り行います」


 その声が石壁に反響し、部屋の空気がひやりと変わる。

 風がぴたりと止まり、遠くで水滴が落ちる音が響いた。

 古びた祭壇の上――水盤の中に浮かぶ白い花々が、かすかに揺れている。


 澪は思わず息を詰めた。

 冷たい静けさの中、アゼルが両手を胸の前で組み、低く祈りの言葉を紡ぐ。

 その声はまるで、水面の下から響いてくるように柔らかかった。


 ふと、澪の頬を光がかすめた。

 水面の花びらが、ひとつ、またひとつ、光を増してゆく。

 その輝きは最初、ほんの微かな息のようだった――けれど、次の瞬間。


 水盤が黄金に弾けた。


 光が奔流のように溢れ出し、澪の全身を包み込む。

 足元の影が消え、髪がふわりと浮かぶ。

 頬を撫でた風は、氷のように冷たく、そしてどこか懐かしい。


 アゼルは目を見開き、次の瞬間、膝をついた。

「――ば、馬鹿な……この輝きは……!」


 黄金の光が天井の文様を照らし出す。

 壁に刻まれた星の模様が淡く脈打ち、部屋全体が呼吸するように光を返した。

 澪のまわりでは、水盤の花がふわりと宙に舞い、まるで夜空の星が零れ落ちたように散っていく。


 やがて光が静かに収まり、部屋を再び闇が満たした。

 かすかに残るのは、金の粉がゆらめく水面だけ。

 その光を映したまま、アゼルは膝をついたまま動けなかった。


「まさか……本当に、あなたが星永の乙女なのですか……」

 彼の声は震えていた。

 澪はただ、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、何が起きたのか理解できずに立ち尽くしていた。

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