49.醒めた夢
帝国では、まだカイ・ルクレシオの帰還の噂が静かに広がり始めた頃だった。
男たちはその名を恐れと敬意をもって語り、
女たちは――帝国最強の魔導士でありながら、誰よりも美しいと噂される男の名を、息を潜めて聞いた。
まるで夢の続きを語るように、人々はその帰還を囁き合っていた。
――水の音が、絶え間なく続いていた。
細い水流が静かに流れ落ちるような、その音だけが世界の輪郭のように響いていた。
澪はゆっくりと目を開けた。
目に飛び込んできたのは、白灰色の天井。高く広がるその空間には、淡い光が満ちていた。
まるで空気そのものが金色の靄を帯びているようだった。
頬にひやりとした感触があった。
冷たくて固い――。
ゆっくりと上体を起こす。
澪は石の床の上に横たえられていたらしい。
その床は円形をしており、周囲を一回り大きな水盤が取り囲んでいる。
澄んだ水が静かに満ち、光を受けて淡く揺れていた。
水面は鏡のように穏やかで、わずかに光を揺らめかせながら、壁や天井を淡く照らしていた。
その向こうに――少女の石像が立っている。
顔を傾け、両手を胸の前で重ねた姿。
その瞳からは、絶え間なく水が流れ落ちていた。
涙のように、細く、途切れることなく。
光を受けた水が、細い糸のようにきらめいていた。
静かな流れが池へと注ぎ、澪のまわりに淡い水音を響かせている。
見たことのない場所だった。
胸の奥がざわめいた。
夢じゃない――そう思うほどに、冷たい現実感があった。
澪は唇をかすかに震わせる。
「……ここ……どこ……?」
声はあっけないほど小さく、空気に溶けて消えた。
自分の声が、こんなにも頼りなく響くことがあるなんて思いもしなかった。
ふいに、昨日の夜のことが頭をよぎる。
白い息、街のイルミネーション、テーブルに並んだ料理。
そして――「さよなら」と言ったカイの声。
(そうだ……カイは自分の世界に帰ったんだ。あのあと、私……どうしたんだっけ……?)
思考が霞のようにほどけていく。
どれが夢で、どれが現実だったのか、わからない。
「……カイ?」
名を呼ぶ声が水面に落ち、波紋となって広がった。
そのとき、かすかな衣擦れの音がした。
澪が顔を向けると、扉のそばに女が立っていた。
白い衣をまとい、顔の半分を薄布で覆っている。
「あっ……!」
澪は思わず立ち上がると声を上げた。
「ここ……どこなんですか? 私……どうして……?」
澪と目が合うと、女は一瞬だけ驚いたように息を呑み――次の瞬間、何も言わずに踵を返し、静かに部屋を出ていった。
「待って……!」
扉が軋み、閉まる音が石壁に反響した。
残された澪は、その音を追うように立ち尽くす。
再び訪れた静寂の中、自分の心臓の音だけが響いていた。
少女像の瞳から絶え間なく落ちる水が、円形の水盤を静かに叩いている。
まるで夢の中みたいだった。
けれど頬を撫でる空気はあまりに冷たく、それが現実であると思い知らされる。
――そのとき、扉が再び軋んだ。
入ってきたのは、黒衣をまとった男だった。
肩まで届く灰白の髪が、淡い光を反射して揺れる。
瞳は鋭く、笑っているのにどこか氷のように冷たい。
「……目を覚ましたか、娘よ」
その声に、澪は思わず息をのんだ。
「あなた……誰?」
男は口の端をわずかに上げた。
「私は第一宮廷魔導士団団長――モルフェウス・アストレイア」
その名を聞いた瞬間、澪の脳裏にひとつの記憶がよみがえる。
カイが、ため息をつきながら言ったあの夜の声。
“ヴァルディア帝国の第二宮廷魔導士団”――。
(宮廷魔導士団……)
胸の奥がざわついた。
「ここは……カイの、世界なの?」
モルフェウスは低く笑った。
「カイ・ルクレシオ。お前を騙してここへ連れてきた男の名だな」
「騙して……? 何を言ってるの?」
「奴は言っただろう。『呪いを解くために、百日間お前の願いを叶える』と」
澪は唇をかすかに震わせた。
「……カイの呪いは……もう解けたはずでしょ?」
男は短く笑い、瞳に冷たい光を宿した。
「呪いなど、解けるものか。あれは方便だ」
「……方便?」
「お前の魂を試すための仕掛けだ。
星永の乙女に相応しいかどうかを見極めるためにな」
モルフェウスが片手を上げる。
空気がひずみ、光が集まる。
次の瞬間――彼の掌の上に、一輪の花が咲いた。
――白月花。
澪は息を呑む。
何もない空間から、淡い光の花が生まれた。
百合にも似た形の花弁が薄く光を帯び、中心で星のような粒が瞬く。
「この花を使って、奴はお前を測った。
百日間、花を枯らさず咲かせ続けられるか――
それが“選ばれし魂”の証だ」
「……私の魂を、試すための……嘘?」
呆然と呟く澪の耳に、男の笑い声が落ちる。
「そうだ。だが“結果”は、まだ見ていない」
モルフェウスの目が細まり、残酷な光が宿る。
「カイは言った。お前は星永の乙女ではなかった――とな」
「……!」
「だが、それが本当かどうか、これから確かめよう。
“白月花の儀”でな」
冷たい声が、部屋の空気を刺すように震わせた。
「なに、それ……もし、私がそうだったとしたら、どうなるの?」
澪の声は震えていた。
「それは――結果を見てからのお楽しみだ」
そのとき、扉が静かに開いた。
柔らかな衣擦れとともに、ひとりの青年が姿を現す。
腰まで流れる白銀の髪が光を受けて淡く輝き、金の瞳が夜明け前の星のように揺れていた。
白を基調とした神官服の裾が静かに揺れ、胸元の星形の徽章が、微かな光を返して瞬いた。
彼は静かに頭を垂れる。
「モルフェウス殿」
モルフェウスが顎をわずかに動かした。
「アゼル・ノア=ヴェルン。アステリア神殿の大神官よ。娘が目覚めた。
“白月花の儀”を執り行え」
青年――アゼルは静かに頷き、
その金の瞳を澪に向けた。
「娘よ。どうか、恐れないでください」
澪は息を呑んだ。
けれどその声の奥には、どこか深い哀しみが潜んでいるように聞こえた。
アゼルはゆるやかに膝を折り、両手を胸の前で組んだ。
「……これより、“白月花の儀”を執り行います。ただし――この儀は極めて厳粛なものです。古代文書の定めに従い、外部の干渉を禁じられております。
モルフェウス殿、どうか今だけお下がりください」
モルフェウスの唇がわずかに歪む。
「私に退けと?」
「はい」
その声音は柔らかいが、譲らぬ強さがあった。
「“星永の乙女”と“花の証明者”以外、この場に立ち会うことは許されません。
これは、千年前の契約に刻まれた掟です」
モルフェウスはしばし沈黙した。
やがて、喉の奥で低く笑う。
「……ふむ。相変わらず融通が利かんな、アステリア神殿の者は」
踵を返すと、長い外套が音を立てて揺れた。
「いいだろう。せいぜい、古き儀に殉じるがいい。
結果だけ、あとで聞かせてもらうぞ」
その声を残し、モルフェウスは部屋を出ていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
――澪とアゼル、二人きり。
澪は息を飲み、身を固くした。
何が始まるのか、わからない。
けれど、ただならぬ空気が部屋を包み込んでいた。
アゼルはゆっくりと振り向き、澪を見つめた。
「私はアステリア神殿の大神官、アゼル・ノア=ヴェルン。あなたの名前は?」
澪は警戒しながら自分の名を告げる。
「あ……澪です……白石澪」
「澪……警戒しなくていい、そのまま床の中央にいてください」
声は低く、しかし確信に満ちていた。
「この部屋は監視されています。だから――表情を変えずに、聞きなさい」
澪の喉が詰まる。
何かを理解したように、ゆっくりと頷く。
アゼルは掌を上に向けた。
空気がかすかに震え、淡い光が溢れ出す。
何もない空間から、一輪の白月花が姿を現した。
花弁が淡く光り、静かに揺れる。
彼はその花を、水盤の上へと放った。
花は音もなく浮かび、柔らかな波紋を描いた。
もう一輪、そしてもう一輪――
アゼルは同じように花を生み出し、均等な間隔で円を描くように浮かべていく。
澪は息を呑む。
静寂の中、アゼルの声が小さく落ちる。
「……この儀は、彼の命令のために行うものではない」
澪の瞳が揺れる。
アゼルはその反応に目を向けず、さらに花を一輪、掌に生み出した。
「まずは、アステリアと星永の乙女について、あなたに伝えましょう」




