48.目覚めの花
風が、山を駆け上がっていた。
雪を巻き上げ、外套を裂くように吹きつける。
その只中を、カイは無言のまま、夜の空を進んでいた。
息が白く散る。
下方――雲の切れ間の向こうから、強い光が立ちのぼった。
視界の底が、一瞬で白く染まる。
――目を上げた瞬間、世界が変わった。
山の頂。
そこだけが、まるで別の世界だった。
灰色の雲が流れ、風が頬を刺す。
やがて――視界が、金色に染まった。
雪の中に咲き乱れる花々。
どの花も、黄金に輝いていた。
祝福のような光が雪を溶かし、空気そのものを震わせている。
息が止まる。
白月花が黄金に輝くのは、星永の乙女が選ばれた証。
この世界に――乙女が誕生した印。
だが、乙女はここには生まれない。
――だとすれば。
「まさか……君なのか……」
カイの背筋を、稲妻のような衝撃が走った。
光を振り払うように、彼は走り出す。
雪煙が弾け、風が裂ける。
空気が歪み、現実がほどける。
音もなく、世界が反転した。
***
異界の扉を抜けた瞬間、風の匂いが変わった。
鼻を掠めたのは、懐かしい街の空気――
彼女と過ごした、あの世界のものだった。
どれほどの時が流れたのだろう。
空の色も、街のざわめきも、少しだけ違って見える。
夕暮れの街角。
掲示板の一角に、風に揺れる貼り紙があった。
色あせ、端がめくれかけたその紙の中央には、
見慣れたあの笑顔が、陽に焼けたまま貼りついている。
――“行方不明 白川澪(十八)”
胸の奥が、ひりつく。
呼吸をするたび、冷たい痛みが胸を裂いた。
貼り紙の端が、風にあおられてはらりと揺れる。
その一瞬の動きが、まるで微笑みが消えていくようで――
カイは思わず、目を逸らした。
通りの向こうで、人影が動いた。
手に束ねた紙を持ち、行き交う人に頭を下げている男。
見覚えのある背中――けれど、記憶の中よりもずっと細く、声には疲れが滲んでいた。
カイは足を止める。
男の手から落ちたチラシが、風に乗って足元をすべった。
拾い上げた紙の中にも、同じ笑顔があった。
喉の奥が、熱くなる。
見慣れた姿が、紙の上で静かに時を止めていた。
カイは、しばらくその場から動けなかった。
胸の奥で、何かがゆっくりと崩れていく。
歩み寄りながら、低く声を落とす。
「……この子、いつからいなくなったんですか?」
カイの声は、震えていた。
「ああ……半年程前……昨年の十二月二十四日、クリスマスの日です。
次の日、私が出張から帰ると、もうどこにもいなくて……」
男は苦く笑い、チラシを差し出す。
「こんなことなら出張なんて行かなければ……いや、すみません、もしこの子を見かけたら連絡ください――よろしくお願いします」
そういってゆっくりと頭を下げた。
カイは頷くこともできずに、チラシを受け取ると、フラフラと歩き出した。
――クリスマス。
彼女と二人きりでクリスマスを祝ったあの夜――さよならを告げたあの日。
静かに目を閉じる。
脳裏に、あの日の幸福な時間が蘇る。
(僕が帝国で、何事もなかったように日々を過ごしていたあいだ……君は、この世界から――奪われていたのか)
カイは紙を握りしめた。
「……彼女は――澪は帝国にいる」
風が吹き抜け、ビラが夜空に舞い上がる。
その背中を、街の灯が金色に染めていた。
***
夜更けの魔導士団本部は、息を潜めるように静まり返っていた。
窓の外では雪が音もなく落ち、淡い光だけが石壁を照らしている。
リュシアの部屋の扉が、ゆっくりと開いた。
「……だれ?」
机に向かっていたリュシアが、驚いたように振り返る。
ランプの光が揺れ、立っているカイの輪郭を浮かび上がらせた。
その氷のような表情に、リュシアの背筋がわずかに強張る。
「団長? こ、こんな時間に……どうされたんですか?」
カイは答えないまま部屋に入り、扉を静かに閉めた。
その動作ひとつで、空気が一段と冷たくなる。
「――僕が、あの世界から帰還したあの夜のことだ」
「……え?」
「君はモルフェウスの命令で動いたんだろう? それとも皇帝かな」
声は低く、抑えられていた。
けれどその奥には、刃のような熱が潜んでいる。
「彼女は“星永の乙女”ではないと、僕は報告したはずだ。
……なのに、君たちは何をした?」
リュシアは息を詰める。
「団長、それは――」
「答えろ」
その一言で、部屋の空気が震えた。
机の上の羽根ペンが跳ね、ランプの炎が揺らぐ。
カイの問いに、リュシアは一瞬だけ目を伏せた。
「……私は、モルフェウス様に報告しただけです。“娘は星永の乙女ではなかった”と」
その声はかすかに震えていた。
「それで?」
カイの瞳が静かに細められる。
ただそれだけで、空気が圧を帯びた。
リュシアは唇を噛み、言葉を選ぶように続けた。
「……その後、モルフェウス様は……白月花を確認できないのであれば――娘を、連れて来いと」
沈黙の中、カイのまつげがわずかに震えた。
リュシアは俯いたまま、ほとんど聞き取れない声で言う。
「……たとえ星永の乙女でなかったとしても、団長が“執着する娘”なら、利用価値がある、と」
その瞬間、室内の温度が一気に落ちた。
空気が凍り、蝋燭の炎が細く歪む。
「――利用価値、だと?」
低く、掠れる声。
氷の底を這うような冷たさがあった。
次の瞬間、部屋中の魔力が一斉に震える。
窓ガラスが軋み、机の上の紙が舞い上がった。
それでも、カイの顔には怒りの色ひとつ浮かんでいない。
その沈黙こそが、怒りよりも恐ろしかった。
「その意味を理解したうえで、君は彼女を差し出したのか」
カイの声は氷のように平坦だった。
怒りも哀しみも見せないその表情が、かえって恐ろしく感じられる。
「……団長」
リュシアは息を詰め、言葉を探すように目を伏せた。
「澪はどこだ?」
短く、乾いた声。
その一言に、部屋の空気がぴり、と音を立ててひび割れたように感じた。
リュシアは答えない。
ただ指先が震え、沈黙が長く落ちる。
それだけで、カイの纏う空気が鋭く尖っていく。
彼の周囲に、見えない刃が立ち上るような圧が満ちていった。
「……なぜ、ですか?」
ようやく絞り出すように、リュシアが口を開いた。
その瞳には、恐れと、どうしようもない悲しみが滲んでいる。
「なぜ、あの娘がそんなに大切なのですか?」
カイは視線も動かさず、静かに言う。
「僕の質問に答えてくれる?」
その冷たさは、刃よりも痛かった。
けれどリュシアは引き下がらなかった。
声が震えていても、言葉だけは止まらない。
「たった百日、一緒に過ごしただけの娘に――
なぜあなたは、そんなにも変えられてしまったんですか?
帝国の切り札と呼ばれ、誰もが畏れていたあなたが……
あの娘と出会ってから、変わった。
あの冷たい瞳に、優しさなんてひとかけらもなかったのに……!」
カイは小さくため息をついた。
「君と話している時間なんてないんだけど?」
冷たく乾いたその言葉が、刃のようにリュシアの胸に突き刺さった。
彼は続ける。
「僕が変わった? ……そうかもね。
でも、僕はいつでも帝国が望む“化け物”になれるよ。
変わろうが変わるまいが――そんなこと、どうでもいい」
カイはゆっくりと身を翻した。
外套の裾がわずかに揺れ、ランプの炎がそれに合わせて明滅する。
「……まあいいや。彼女がどこにいるか、大体の見当はついてる」
扉に向かって歩き出す。
その瞬間、リュシアがとっさに手を伸ばした。
「――待って!」
カイの手首を掴む。
白い指先が、彼の腕を震えるように掴みしめていた。
「行かないで……!」
リュシアの声がかすれる。
「あなたを変えたのが、あの娘じゃなくて……私だったら良かったのに……」
カイは立ち止まり、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりとため息を吐く。
その吐息が、沈黙の中で不自然なほど大きく響いた。
「……そうだね。僕は確かに変わったのかもしれない」
わずかに視線を落とし、囁くように続ける。
「――今、君を消し炭にしない程度には、ね」
リュシアの手が、びくりと震えた。
次の瞬間、カイはその手を軽く振り払い、扉を開ける。
冷たい風が流れ込み、蝋燭の火が大きく揺れた。
「……団長……!」
リュシアの声が追う。
けれど、返事はなかった。
カイの姿が闇に溶けていくのを見届けると、リュシアは力が抜けたように膝をつく。
震える手で口を覆い、堪えきれずに涙が頬を伝った。
長い間、あなたの背だけを見てきた。
――それでも、あなたの隣にいられれば、それでいいと思っていたのに。
あなたの傷を癒せるのは、私しかいない……それでも、あなたはまた、私の手の届かない場所へ行ってしまう。
外では、雪が音もなく降り続いていた。
夜の帝国に、冷たい光の欠片が静かに舞っていた。




