47.硝子越しの星
帝国に戻ってからの数日、戦の気配はなく、退屈だけが静かに積もっていった。
暇を持て余して訓練場に顔を出せば、つい威力を抑えそこねて壁を壊す。
最初は笑っていたリュシアも、今では「攻撃魔法の実演は森でお願いします」と真顔で釘を刺すようになった。
夕刻、窓の外では茜の光が石壁を染めている。
カイは机に積み上がった書類を前に片肘をつき、羽根ペンを走らせていた。
紙を擦る音だけが、静かな部屋に淡く響いていた。
ひとつ終えて、深くため息をつく。
「……どうして僕が、こんな雑務まで」
誰にともなくこぼした言葉が、夕暮れの空気に吸い込まれる。
扉が軽く叩かれた。
「団長、失礼します」
入ってきたリュシアは、いつものきっちりとした団衣姿だった。
室内の空気に漂う紙とインクの匂いに、少しだけ眉をひそめる。
机の上には終わりの見えない書類の山。
カイはその中央で、淡々とペンを走らせていた。
「……まだやってたんですか」
リュシアが苦笑まじりに呟く。
「終わらないんだ。僕がいない間、誰かが代わりにやってくれてたんじゃなかったの?」
顔を上げずに、淡々と返す。
「私も少なからず処理しましたが……団長の字でないと通らない書類も多くて」
「便利な制度だね」
カイの口元にうっすらと皮肉が浮かぶ。
リュシアは少し躊躇いがちに近づき、机の端に視線を落とした。
羽根ペンが紙を滑る音が、やけに響く。
「……あの」
言葉を探すように指先が机の縁をなぞる。
それからようやく、口を開いた声は、思っていたよりも柔らかかった。
「たまには、外で夕食でもどうですか?」
カイは手を止めず、書類に署名を続けながら言う。
「たまにはって、この前宴したばっかりだよね?」
「そ、それは部下たちとじゃないですか!」
リュシアは一歩踏み出し、ほんの少し声を上ずらせた。
「たまにはその……二人で、一緒に夕食を囲みませんか?」
その言葉に、カイがようやく顔を上げる。
銀の髪が夕陽を反射して揺れた。
「君と二人で? なんで?」
「な、なんでって……その、団長が不在の間の団の様子だとか、いろいろとお伝えすることもありますし……」
視線を泳がせながら、言葉がしぼむ。
「せっかくでしたら、夕食をとりながらでも……と」
カイはペンをくるりと指で回し、淡く笑った。
「確かに、真面目に向かい合って報告されても、しんどいかもね」
「え?」
「いいよ。じゃあさ、この書類の処理、手伝ってくれない? 僕の直筆じゃなくていい部分だけ」
机の上の束を、軽く片手で持ち上げて差し出す。
リュシアは一瞬きょとんとしたあと、ぱっと表情を明るくした。
「はい! もちろん!」
二人は並んで机に向かい、黙々と手を動かした。
外が藍に沈む頃には、塔の窓辺に灯がともり、書類の山はようやく低くなる。
カイが最後の書簡に署名をして、肩を伸ばした。
「……さて。そろそろ行こうか」
「え? 本当に?」
「約束したでしょ」
リュシアは嬉しそうに頷くと、慌てて外套を羽織った。
団長室を出ると、帝都の街はすでに夜の光に包まれていた。
石畳の通りには魔灯が並び、橙色の光が揺れている。
露店から香辛料の匂いが流れ、楽器の音が遠くで響いていた。
空は深い群青に染まり、塔の上には薄く月が浮かんでいた。
カイは街の喧騒を抜け、帝都でも評判の高い一軒の店に入った。
黒い外壁に銀の装飾が施され、静かな音楽が流れている。
店員が恭しく頭を下げ、二人を奥の席へ案内した。
柔らかな灯りの下、磨かれた木のテーブルに座る。
メニューを開く音だけが、妙に大きく響いた。
「……何にします?」
リュシアが少し緊張気味に尋ねる。
「適当に。君が選べばいい」
「では……おすすめを二人分で」
注文を終え、静寂が落ちる。
どちらも言葉を探しているようだった。
やがてリュシアが、恐る恐る口を開く。
「飲み物は……どうします?」
「今日は飲まないよ」
「そんな、せっかくなんですから。この店は葡萄酒が有名で――」
勧めながらも、指先が少し震えていた。
カイはその様子を見て、小さくため息をつく。
「……じゃあ、一杯だけ」
そう言うと、そばに控えていた給仕を軽く手で呼び止める。
「葡萄酒を、二人分」
給仕が静かに頭を下げ、席を離れる。
短い沈黙が戻り、カイは無意識に窓の外へ視線をやった。
街灯の灯りが夜風に揺れ、石畳に淡い影を落としている。
まもなく、赤い瓶を抱えた給仕が戻ってきた。
グラスに注がれた葡萄酒は、灯りを受けて赤い星のように輝いた。
リュシアはカイの横顔をちらりと見て、グラスを手に取った。
「……最近、第二宮廷魔導士団の内部も少しざわついています」
カイは返事をしない。
グラスの中で赤い液体がわずかに揺れ、灯りを映していた。
「補佐官の間で、“北方方面への再派兵”の噂が出ています。
先日の休戦協定も、形式だけのものだったようで……」
言葉を選ぶようにしながら、リュシアは続ける。
「それに、隣国セレスティア領の国境沿いで、新しい魔導要塞の建設が確認されました。
おそらく、帝国は――」
「再び動く、というわけか」
カイが低く呟いた。
リュシアは小さく頷く。
「第一宮廷魔導士団が調査に入っています。
モルフェウス様の意図は分かりませんが……帝国中枢では“次”の戦を前提に動き始めています」
リュシアは一度言葉を切り、グラスの脚を指でなぞった。
「もっとも、私たち第二宮廷魔導士団には詳細は知らされません。
政治も策略も、私たちには関係のない話ですから。
戦が始まれば、命令ひとつで最前線に送られ、ただ敵を倒すだけ」
カイは黙って聞いていた。
その沈黙が、彼女の言葉を肯定しているようにも聞こえる。
リュシアはかすかに笑った。
「……でも、団員たちは気づいていますよ。平和なんて、きっと誰も信じていない」
店内の静かな音楽が、かえって重苦しく響いた。
グラスを回すカイの指が止まる。
「また戦か……」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、
葡萄酒の赤に沈んでいった。
リュシアはグラスの縁を指でなぞり、ふっと息をついた。
「……そういえば、第三宮廷魔導士団のゼノン・ディラクト団長、婚約されたそうですよ」
カイが目を上げる。
「第三宮廷魔導士団って、あのメガネ?」
リュシアは呆れたように笑う。
「“あのメガネ”じゃありません。ゼノン・ディラクト様です。同じ団長なんですから、名前くらい覚えてください」
カイは肩をすくめ、グラスを傾けた。
「名前に興味を持つほど、彼とは親しくないからね」
リュシアは小さくため息をつき、それでも続けた。
「お相手は第一近衛騎士団団長、ラドクリフ団長の一人娘らしいです。
夜会でひと目ぼれしたゼノン団長が、あの“魔導士嫌い”で有名なラドクリフ団長に、直接頼み込んで婚約を認めてもらったとか」
カイが眉をわずかに上げる。
「へえ。あの堅物メガネがね。……ひと目ぼれなんて、ずいぶん安い台詞を吐くんだね」
リュシアは苦笑しながらグラスを置く。
「いいじゃないですか。ひと目ぼれだって、運命かもしれないじゃないですか」
――運命。
その言葉が、カイの胸の奥でかすかに揺れた。
あの夜空の下で出会った少女の笑顔が、ふいに脳裏をかすめる。
笑いながら見上げた瞳、指先に残るぬくもり、そしてあのどこまでも真っすぐな声。
(……運命、ね)
グラスの中の赤が揺れる。
その光景を振り払うように、カイはわずかに首を振った。
カイはわずかに口角を上げ、視線を向けた。
「運命? 君の口からそんな単語が出てくるなんて。……リュシアも、ひと目ぼれとかしたことあるの?」
その問いに、リュシアの手が止まった。
グラスの中の赤が、灯りを受けて微かに揺れる。
――初めて第二宮廷魔導士団に配属されたあの日。
訓練場で振り返った銀の髪と、静かな蒼の瞳。
それを見た瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなったことを、彼女は今も覚えている。
「いえ……」
リュシアは首を横に振り、小さく笑った。
頬に滲む赤を隠すように、髪を耳にかける。
「顔、赤いよ? へえ、心当たりあるの? 意外だね。君でもそんな経験あるんだ?」
リュシアは慌ててグラスを置いた。
「そ、そんなことありません! からかわないでくださいよ」
カイは小さく笑い、肩をすくめた。
「ごめん、冗談だよ。そんなに真面目に返すなんて、君らしいね」
その声音は、いつもの冷ややかさとは違っていた。
刃のような鋭さを帯びていた声が、今はどこか柔らかく、静かに胸の奥へと落ちてくる。
思わず息を呑む。
その優しい響きが、ほんの一瞬、心に甘く残った。
(……あなたをそんなふうに変えたのが、私なら良かったのに)
言葉にならない思いを胸の奥で噛み殺し、リュシアは膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
カイは小さく笑い、視線を窓の外に戻す。
ガラス越しの夜空に、星の光が微かに滲んでいた。
静けさが落ちた。
テーブルの上でグラスの赤がゆらめき、遠くで食器の触れ合う音が微かに響く。
その音さえ、どこか遠い世界のもののように感じられた。
リュシアはそっと息を吸い、口を開きかける。
「……その、異界で……」
けれど、その先の言葉は出てこなかった。
カイが窓の外を見つめている横顔が、あまりにも静かで――
まるで今も、どこか別の世界を見ているようで……。
***
食事を終えるころには、夜はすっかり更けていた。
店を出ると、帝都の街路には霧のような冷気が漂い、魔灯の明かりが石畳にぼんやりと滲んでいた。
吐く息が白くほどける。
リュシアは手袋越しに両手を擦り合わせながら、少し名残惜しそうに言った。
「……久しぶりに、ゆっくりできましたね」
「そう?」
カイは軽く肩をすくめ、街の灯を見上げた。
「僕には、いつも通り退屈な夜にしか思えなかったけど」
その言葉に、リュシアは苦笑を浮かべた。
「……団長には何でもない夜でも、私には、少し特別な時間でした」
風が吹き抜け、カイの銀の髪を揺らす。
その横顔に声をかけようと、リュシアが一歩踏み出した――その瞬間。
――ドンッ。
夜気を震わせるような低い爆音が、遠くから響いた。
石畳の下がわずかに震え、店の前の灯が一瞬だけ揺らぐ。
「……今の、聞こえましたか?」
リュシアの表情が一気に引き締まる。
カイは視線を上げ、眉をわずかにひそめた。
次の瞬間、彼の体が淡く青を纏う。
ふっと風が巻き起こり、カイの身体が宙へと浮かび上がった。
群青と黒の外套が夜風を裂き、街の上空にその影を描く。
眼下に広がる帝都の街並み。
通りを照らす魔灯の群れの向こう――路地裏で閃光が散った。
火花のようにぶつかり合う二つの魔力。
「……喧嘩、か」
カイは小さくため息をついた。
少し遅れて、リュシアも空に浮かび上がる。
「団長、見つけましたか?」
「うん。あの路地だよ」
指先で軽く示す。
「二人とも魔導士だ。魔法を使って暴れてる。下手すれば民間人に被害が出るかもね」
淡く笑って、彼は視線をリュシアへ向けた。
「止めてきて。そういうの、得意でしょ? 君」
「……了解しました」
リュシアは真剣な眼差しで頷き、光を纏って夜空を駆けた。
その背を見送りながら、カイはゆっくりと息を吐いた。
視線を落とすつもりが、ふと、夜の向こうに何かが閃いた気がした。
帝都の外――黒い地平の彼方、白月花の山。
雲に隠れていたはずのその頂が、一瞬、微かに光を帯びる。
最初は、気のせいだと思った。
けれど次の瞬間、光は確かに形を持ち、夜空を照らし出した。
淡い金の輝き。
風に揺れるように、静かに、けれど確かに――。
「……そんなはず……」
思わず息をのむ。
胸の奥で、何かが鋭く脈打った。
カイは視線を逸らせないまま、魔力を解き放つ。
空気が震え、夜が裂けた。
外套が翻り、銀の髪が流星の尾のように光を引く。
そのまま彼の姿は、音もなく帝都の空を切り裂いて――
黄金の光の差す山頂へと、一直線に駆けた。




