46.塔に射す朝
翌朝。
薄い霧のような朝靄が塔の外を漂い、遠くで鐘が三度鳴った。
その音を背に、カイは寝台の上でうつ伏せになっていた。
「団長! 起きてください、もう朝です!」
扉の向こうから、少し弾んだ声が響く。
カイは枕に顔を押しつけたまま、低く唸った。
「……朝からうるさいなあ」
頭の奥が鈍く痛む。
昨夜の酒――リードの祝い酒、団員たちの無礼講、リュシアの妙に楽しそうな笑顔――全部まとめて思い出したくなかった。
「せっかくですから、今日は部下たちの稽古をつけてやってください!」
「やだ」
「団長っ!」
扉が勢いよく開き、リュシアがずかずかと入ってきた。
濃紫の髪が朝の光を受けてさらりと揺れる。
その顔には、見事なくらいの快活な笑みが浮かんでいた。
「……君、朝から元気すぎない?」
カイが低くぼやく。
「当然です。団長が珍しく宴に最後まで付き合ってくださったんですから」
リュシアは胸を張り、どこか誇らしげだ。
「皆、団長が稽古場に来てくださるって聞いて、もう準備万端なんですよ!」
「……そう」
カイは淡々と返し、寝返りを打った。
こめかみに響く脈が小さく跳ねる。
「団長、失礼します!」
ばさり、と。
次の瞬間、リュシアは迷いなく布団を引き剥がした。
「ちょっと」
カイが顔をしかめる。
酒の残る瞳に、紫の髪がちらりと映った。
「二日酔いの人間に、もう少し優しくできないの?」
紫の瞳が愉快そうに細められる。
「いつまでも寝てたら、モルフェウス様に報告しますよ?」
「……脅しか」
「忠告です」
リュシアはにっこりと笑った。
その無駄に眩しい朝の気配に、カイは片目を開けてうめくように言った。
「君って、こんなに強引だったっけ?」
「私は今までと何も変わりませんよ?」
リュシアは少しだけ視線をそらし、息を整えるように言った。
「……ただ、団長が今まであまり私のことを見てくれなかっただけです」
最後の言葉が、ほんの少しだけ掠れていた。
自分でもそれに気づいて、慌てて笑みを作る。
「だから、気づいてもらえるように頑張るんです。副団長として、ですけど!」
カイはその妙な言い回しに目を細めた。
「副団長として、ね」
リュシアは咳払いをして、背筋を伸ばす。
「……はい。副団長として、です」
カイは小さく笑って寝台から身を起こした。
「了解。じゃあ、副団長の命令に従うとしよう」
***
朝の訓練場には、冷えた空気と魔力のざわめきが満ちていた。
第一宮廷魔導士団の若い団員たちが整列し、緊張の面持ちで立っている。
その前に立ったカイは、軽くあくびをしながら視線を流した。
「……で、これが今の君たちの実力?」
若い魔導士の一人が息を整え、魔法陣を展開する。
青い光弾が的に当たり、しゅんと煙が上がった。
カイは首を少し傾げる。
「弱いね」
ざわ、と空気が揺れた。
「威力が足りないのは、魔力の“圧縮”が甘いせいだ。
溜めるだけで満足してるから、放つ瞬間に力が抜けてる。
それに――遅い。
敵が動いてから撃つんじゃ遅いんだよ。
“相手が動く前に撃つ”こと。
予測と初動が遅ければ、どんな魔法もただの光遊びだ。」
その言葉に、団員たちの顔が一斉に引き締まる。
若い団員が逡巡のあと、思い切って声を上げた。
「……団長。よろしければ、その……見本をお願いできますか」
息を詰めたような沈黙が、訓練場を包む。
「……見本、ね」
カイは片眉を上げる。
「命令でもないのに僕を動かそうとするとは、勇気があるじゃないか」
指を鳴らした瞬間、空気がきしむ。
次の刹那、世界がわずかに歪み、指先に小さな炎の珠が生まれる。
詠唱もなく、ただ手を向ける。
――炎は音もなく飛び、的を貫いた。
次の瞬間――轟音が響き渡った。
爆風が訓練場を包み、砂煙と熱風が吹き荒れる。
団員たちが悲鳴を上げて転げた。
「――あああっ! あ、ありがとうございました団長! もう十分です!」
煙の向こうで、的どころか背後の石壁まで破壊され、無残に崩れ落ちている。
カイは指を払って小さく呟く。
「加減したつもりなんだけど」
リュシアは崩れ落ちた石壁を見上げ、呆れたように息をついた。
「……団長。訓練場の修復費、団の予算から出るんですよ」
その声には、わずかに笑みが混じっていた。
砂煙の中、団員たちはまだ言葉を失っている。
焦げた匂いと熱の残る空気の中で、誰かがごくりと唾を飲み込む音がした。
リュシアが軽く肩をすくめる。
「次はもう少し優しくお願いしますね。
……壁どころか、部下まで消炭にする勢いでしたよ?」
その一言に、あちこちで息が漏れ、ようやく場が動き出す。
笑いとも安堵ともつかない空気が流れ、誰かが小さく咳払いをした。
すると、若い団員の一人が意を決したように前へ進み出る。
「だ、団長! その……すごかったです! こちらにいる間、ぜひまた稽古をつけてください!」
続いて、何人かの若者たちが勢いよく頭を下げた。
「お願いします!」「ぜひもう一度見たいです!」
その様子に、年上の団員たちが慌てて制止に入る。
「おい、馴れ馴れしいぞ! 団長に失礼だろ!」
リーダー格の男が一歩前に出て、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。入隊したばかりの者たちでして……どうかご容赦を」
カイは少しだけ目を細め、肩をすくめた。
「いいよ」
そう言って、わずかに口元を緩める。
「こっちにいる間の暇つぶしに、また顔を出すよ」
一瞬、場の空気が止まる。
リュシアが目を瞬かせ、他の団員たちも驚いたように顔を上げた。
次の瞬間、訓練場に柔らかなざわめきが広がった。
笑みや声が交錯し、冷たい石畳の上に、久しぶりに温かな気配が戻る。
カイは燃え残る炎の粒を払うと、空を仰いだ。
雲の切れ間から差し込む光が、塔の壁を白く照らす。
――こんな朝も、悪くないのかもしれない。
そう思えるのはきっと――あの世界で、君と出会ったからだ。




