45.宴
帝国城の門を出ると、雪は細かく降り続いていた。
白い息が夜気にほどけ、冷えた石畳を霞ませている。
門のそばで、リュシアが外套の襟を押さえながら待っていた。
彼女の肩にも、薄く雪が積もっていた。
「団長!」
声が響いた瞬間、カイの足が一瞬だけ止まる。
しかし振り返らず、そのまま通り過ぎようとする。
「団長、待ってください!」
慌てて駆け寄ったリュシアが、息を切らしながら問いかけた。
「陛下とモルフェウス様とは……なんと?」
カイは面倒くさそうに片手を上げる。
「しばらくはこっちで休めってさ。お優しい皇帝陛下だよねぇ、まったく」
皮肉めいた言葉に、リュシアの口元がわずかに緩む。
「そうですか……少し、安心しました」
そのままの柔らかな声で続ける。
「今夜は、団員たちと小さな宴を開きましょう。皆、団長のご帰還を心から喜んでいます」
「嫌だよ、西の国境での戦の後も、強引に酒場に連れて行ったくせに。それだって君たちにとってはつい先日じゃないか」
即答に、リュシアは小さくため息をつく。
「あなたがこちらの世界に長く留まることなんて滅多にないんです。せっかくなんですから、部下との親交を深めてください」
「なんで部下との親交を深める手段が一緒に酒を飲む、なの?」
リュシアは苦笑を浮かべる。
「それが一番、皆が喜ぶんです。そういう場でもなければ、部下は誰もあなたに話しかけられませんよ。
いつもあんな無表情で、話しかける隙もないんですから」
カイは反論しかけて、肩を落とす。
「……はいはい」
結局、夜更け前。
帝都の一角にある古い酒場の一室で、団員たちと食卓を囲むことになった。
木のテーブルには酒瓶が並び、湯気の立つスープと肉の匂いが混ざり合う。
笑い声と杯の音が絶え間なく続くその喧噪の中で、
カイはどこか遠い目をしていた。
――あちらの世界の食卓は、もっと静かで、あたたかかった。
誰かの笑い声が、やけに遠く感じる。
「団長!」
唐突に大きな声が響き、陽気に酔った男が近づいてきた。
「俺、昨日娘が生まれたんです!」
勢いに押されて、カイが目を瞬かせる。
男は顔を真っ赤にしながら頭を下げた。
「あなたに命を救ってもらえたおかげで、娘の顔を見ることができました! 本当に……本当にありがとうございました!」
「え? 君……誰?」
心底困ったように言うと、背後からリュシアが助け舟を出す。
「先日の戦いの時、団長に救われたリードという男です」
「ああ……あのときの」
反乱軍の炎が夜空を焼いた記憶が、ふと脳裏に浮かぶ。
リードは涙ぐみながら言葉を続けた。
「娘の名前、団長に付けてもらおうと思って……まだ付けてないんです! 名づけの親になってください!」
「名づけ?」
カイは思わず笑った。
「この僕が?」
(消えゆく名ばかりを見送ってきた、この僕が――)
けれど、すぐに脳裏に浮かんだのは――あの夏の日。
霊園で聞いた、彼女の母の話だった。
命と引き換えに娘を産んだ人のことを、澪はあのとき、
少し誇らしげに、けれど寂しそうに語っていた。
その記憶が、胸の奥で静かに波紋を広げる。
気づけば、言葉が自然にこぼれていた。
「……ルーメ、だよ」
リードが目を瞬かせる。
「ルーメ?」
「この世界の言葉で、“光”って意味だ」
カイは淡々と答えた。
「暗い夜の中でも、誰かの心を照らせる子になるといい」
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥に、あの世界の夜明けがふっとよみがえった。
澪の笑顔、白月花の光、夏の空気――すべてが一瞬で遠くに滲む。
――光、か。
誰かを照らすなんて、僕には似合わない。
愛されることも、愛することも知らない僕が名付け親だなんて。
カイは苦笑を浮かべ、盃を傾けた。
酒の熱が喉を過ぎても、胸の奥だけは、
まだ冷たいままだった。
「ルーメ……いい名前です!」
リードの目が潤む。
「きっと、たくさんの人の光になれるような――そんな子に育てます。
本当に……ありがとうございます、団長!」
リードは涙を拭いながら頭を下げた。
周囲の団員たちがそれを祝福し、杯がいっせいに掲げられる。
その熱気の中で、リュシアは静かにカイを見ていた。
彼の横顔に宿る淡い影を、誰よりもよく知っている。
けれど今、その影の奥に――ほんの一瞬、柔らかな光が灯ったように見えた。
その光は、きっと“彼女”のものだ。
あの異界で出会ったあの娘が、彼を変えた。
冷たい魔導士の瞳に、あんな色を映せる存在がいた。
胸の奥が、かすかに痛んだ。
(私も、彼に必要とされたい。
いつか、あの人の心を動かせる存在になれたら――)
そう願った瞬間、リュシアは小さく息を整え、手を打った。
「――さあ! 団長の帰還と、リードの娘の誕生を祝って!」
少し照れた笑みを浮かべながら、声を張る。
「今日は、思いきり祝いましょう!」
歓声が上がり、杯がぶつかり合う音が響く。
カイは静かに盃を傾けた。
酒の熱が喉を伝うのに、なぜか胸の奥は冷えたままだった。
――まるで、どこか遠い空に置いてきた心の欠片を、
まだ探しているようだった。




