44.帰還
帝国に戻ったカイは、薄い霧のような疲労をまとっていた。
石畳の上に降る雪が、靴跡を残したまま静かに溶けていく。
澪と過ごした百日が、遠い夢のように胸の奥で霞んでいた。
白月花の選定は終わった。
彼は宮廷魔導士団本部の団長室に戻り、淡々と身支度を整える。
群青と黒の外套には金糸の刺繍が走り、
その肩に刻まれた紋章が、再び“帝国の魔導士”としての彼を縛りつける。
机の上には報告書と封印済みの書簡が積み上がっていた。
カイはふと引き出しを開け、白い手袋の入った箱を中にしまう。
指先に、あの世界の温度が一瞬よみがえった気がした。
そのまま帝国城へ向かう気にはなれず、寝室のベッドに身を投げた。
深く息を吸うと、魔力を含んだ空気が肺を満たす。
冷たいのに、なぜか懐かしい。
胸の奥が、ひどく静かに疼いた。
――静寂のなか、かすかに柔らかく、誰かの声が聞こえた気がした。
次に目を開けると、部屋の光はもう変わっていた。
窓辺には薄紫の影が伸び、雪明かりが天井に淡い模様を描いている。
外では風が鳴り、遠くの塔の鐘が一度だけ鳴った。
夕刻はとっくに過ぎ、夜が顔を覗かせていた。
カイはゆっくりと身を起こし、額を押さえた。
どうやら、少しの間だけ眠っていたらしい。
顔を洗おうと廊下に出たところで、向こうからリュシアが早足でやってきた。
「団長! まだドミナス様とモルフェウス様への報告をしていないんですか!」
その声に反応せず、カイは足を止めない。
「団長! 聞こえてますよね?」
リュシアが焦ったように前に回り込む。
カイは片手を上げて、短く答えた。
「うるさいな。これから行く」
それだけ言って、すれ違いざまに外套を翻す。
背後でリュシアの声が何か言いかけたが、もう振り返らなかった。
廊下の窓から射す光は淡く、夜の色に変わりつつあった。
帝国の空気は、相変わらず冷たかった。
帝国城へと続く長い回廊は、冷たい光を帯びていた。
夜の帳が降り、壁に並ぶ燭台が金の光をゆらめかせる。
その光が大理石の床に反射し、歩くたびに影が流れるように揺れた。
カイは外套の襟を軽く立て、無言のまま玉座の間へ向かっていた。
扉の前には、帝国直属の近衛兵が二人。
彼が姿を見せると、兵たちは無言で槍を引き、恭しく道を開ける。
「第二宮廷魔導士団団長、カイ=ルクレシオ。皇帝陛下に謁見を」
抑えた声が、広い石壁に反響する。
重い扉が開き、凍てついた空気が一歩ぶん流れ込んだ。
その先――漆黒と黄金が交錯する玉座の間。
天井まで届く柱には星の紋が刻まれ、中央の玉座には帝国の頂点、ドミナス皇帝が座していた。
その姿は、夜そのもののように静かで冷たい。
玉座の傍らで揺れる蒼い炎が、彼の瞳を怪しく照らしていた。
「カイ=ルクレシオ」
皇帝の低い声が響く。
「報告を聞こう。白月花の選定は――」
「終わりました」
カイは片膝をつき、淡々と答える。
「今回の娘も、星永の乙女ではありませんでした」
ドミナスの眉がわずかに動く。
「……そうか。今度こそと思ったのだが、また虚に帰したか」
その声音には、失望よりも苛立ちの影が濃く滲む。
「――よい。次を探せ。魂の選定は終わらぬ。
星永の乙女が見出されるその日まで、我らの帝国に暁は訪れぬのだからな」
「承知いたしました」
カイの声は無機質だった。
だがその胸の奥で、何かが微かに軋む。
ドミナスは玉座に身を預け、ゆるやかに口角を上げた。
「ところで――」
その瞳が、刃のように細められる。
「お前、今回は“娘”が禁忌の願いを口にしたあとも、なお異界に留まっていたそうだな」
言葉の裏に、わずかな嘲りが滲む。
「……情でも移ったか? 観測者が感情に溺れるなど、笑止だ」
カイの背筋が、かすかに強張る。
沈黙が、返答の代わりに落ちた。
皇帝はゆるりと立ち上がり、王座の影から光へと一歩踏み出す。
その足音が、石の床に乾いた音を刻んだ。
「忘れるな、ルクレシオ」
声が低く響く。
「お前はこの帝国のために造られた。
我が望むままに在り、我が命ずるままに動く器にすぎぬ」
唇が冷ややかに歪む。
「もし……その心に逆らう意志など芽生えたのなら――」
間を置き、わずかに笑う。
「お前の“星”が、どうなるか。理解しているな?」
玉座の間に、静寂が沈み込む。
蝋燭の炎が、風もないのに一瞬だけ震えた。
その揺らめきが、まるで見えぬ誰かの嘆きを映すようだった。
カイは目を伏せたまま、低く答える。
「……はい」
その一言だけを残し、ゆっくりと立ち上がった。
背後で皇帝の笑い声が、薄く伸びていく。
それは祝福のようでいて、呪詛にも似ていた。
***
回廊へ出ると、夜の冷気が頬を撫でた。
遠くの塔で、鐘が三度鳴る。
その音が、帝都に沈む闇をわずかに震わせる。
――“お前の星が、どうなるか”。
ドミナスの声が、まだ耳の奥に残っている。
まるで呪いのように、胸の奥で反響していた。
カイは立ち止まり、ゆっくりと目を閉じた。
心の奥底で、何かがひび割れていく音がした。
「……くだらない」
声は掠れて、夜に溶ける。
「支配と恐怖でしか国を繋げぬ者に、何が暁だ」
瞳を開けると、空気がわずかに揺らめいた。
冷たい魔力が、指先から零れ落ちる。
「滅ぼしてしまおうか」
その呟きは、微笑のように柔らかく。
「この国ごと――あの男の魂ごと、塵に還して」
月が雲間から顔を出す。
その光の中で、カイの横顔はひどく静かに、しかしどこまでも美しく冷えていた。
背後から、低く澄んだ声がした。
「カイ」
振り返ると、長い外套をまとった男が立っていた。
蒼い瞳の奥に、底の見えない静けさを湛える――モルフェウスだった。
「少し、疲れただろう」
足音もなく歩み寄りながら、静かに告げる。
「ドミナス陛下の温情だ。しばらくはこちらの世界で休暇を取るといい」
カイは眉をわずかに寄せる。
「温情、ね。……あの人がそんなものを与えるとは思えないけど」
モルフェウスは静かに笑った。
「まあ、そういうな。進言したのは私だ。
次にお前が“空”へ戻るとき――再び、長く深い静寂の中に沈むことになる。
だからこそ、今は少しだけ、息を整えておけ」
カイは目を伏せ、息を吐く。
「……休めって言われても、僕には戦うことくらいしかできない」
「お前にとっては、戦いもまた、休息の一部だろう?」
モルフェウスの声が夜の空気に溶けていく。
カイは肩をすくめた。
「……ずいぶん妙な休暇だね。
休むことも、戦うことも、どちらも檻の中じゃ同じだよ」
その声に、わずかに苦笑が混じる。
カイは肩をすくめ、外套の裾を翻す。
その歩き方には、どこか無関心を装った軽さがあった。
モルフェウスはしばらくその背中を見送っていた。
雪明かりに照らされた白銀の髪が、静かに夜風に揺れる。
やがて彼は、誰にも聞こえない声で呟く。
「――その“無関心”こそ、最も美しい檻だよ、カイ」
塔の鐘が、またひとつ鳴り響いた。
帝国の夜は、どこまでも長く、冷たかった。




