43.さよなら、の約束
「……澪。君の記憶を、消すね」
その声は、優しいのにどこか震えていた。
澪はゆっくり目を閉じる。
けれど、すぐにまた開いた。
「――カイ。やっぱり、わたし……カイのこと、覚えていたい」
その瞳はまっすぐで、揺るぎなかった。
「忘れたくない」
カイの表情がわずかに歪む。
困ったように目を伏せた。
微かに震える声のまま、澪は言葉を紡ぐ。
「前にいったでしょ?……またカイが、流星になったら、わたしがもう一回願いをかけて呼び戻すって」
澪は胸に手を当てて続ける。
「またカイが悪い魔法使いに呪いをかけられて、星になっちゃったとしても――
わたし、あの空の中からカイを見つける。何千もの星の中からでも、ちゃんと……見つけ出す」
カイが息をのむ。
その瞳が、初めて大きく揺れた。
「毎晩、夜空を見上げてカイを探すから。だから――この思い出を消さないで」
声は穏やかだった。けれど、わずかに震えていた。
それでも澪はまっすぐにカイを見つめていた。
カイはしばらく何も言えず、澪を見つめたまま動けなかった。
そして、かすれた声で問う。
「……また、僕を見つけてくれるの?」
澪は力強く頷く。
「うん」
「……また、一緒に――百日間、呪いを解いてくれる?」
その問いに、澪はもう一度、静かに頷いた。
「もちろん。何度でも」
カイは小さく息を吐き、かざしていた手をゆっくりと下ろした。
手に滲んでいた淡い光がふわりと揺らめき、静かに消える。
唇がかすかに震え、
「そんなの……夢みたいだね」
と、カイは微笑んだ。
――けれどその瞳から、透明な涙が一筋、頬を伝った。
澪はその涙を見て、息が止まった。
胸の奥が、静かに軋む。
それでも顔を上げ、震える声で言った。
「絶対に見つけるから。
カイが星になっても――また私が見つけるから!」
その言葉が、冬の夜に透き通って響いた。
まるで世界がその約束を記憶しようとしているように、
窓の外では、雪がひときわ強く降り始めていた。
「ありがとう、澪。……さよなら」
カイは微笑みながら、そっと澪の額に指を添えた。
触れた瞬間、淡い光が広がる。
澪の睫毛が震え、静かに閉じられていく。
次の瞬間、力が抜けるように身体が傾ぎ――
カイはその身体を優しく抱きとめた。
「……ごめんね」
囁くように呟きながら、澪を腕に抱え、二階の彼女の部屋へと運ぶ。
月明かりがカーテン越しにこぼれ、寝顔を淡く照らしていた。
彼女をベッドにゆっくりと横たえると、そっと手をとり……手の甲に優しく頬を寄せた。
その温もりを、焼きつけるように。
この世界で感じた“人としての幸福”を、最後の一瞬まで確かめるように。
「……さよなら、澪」
その声は震えていた。
やがて立ち上がったカイは、自分の部屋に戻る。
机の上のノート、コップ、制服――どれもが、澪と過ごした証だった。
彼は手をかざし、全てを淡い光で消していく。
まるで最初から、そこに存在しなかったかのように。
背後で空気が揺れた。
淡い光の渦が現れ、リュシアが姿を現す。
「……なぜ、娘の記憶を消さないのですか?」
カイは振り返らない。
ただ窓の外に視線を向けたまま、静かに息を吐いた。
リュシアの声が、わずかに低くなる。
「――あの娘に“愛”を囁かれて、惑わされたんですか?」
その言葉に、カイの肩がわずかに揺れる。
「見ていたのか……」
呟く声は低く、寂しげだった。
カイの脳裏に、あの瞬間が浮かぶ。
澪が、青い瞳を見つめながら言った言葉。
――カイの瞳の色と同じ……すごく、綺麗だね」
(あれは、僕の世界では“愛の言葉”なんだよ、澪)
胸の奥で、静かに痛みが広がる。
「団長!」
リュシアの声が強くなる。
「白月花を枯らした娘に、そんなに執着するなんて……どうかしてます!」
その瞬間、空気が凍った。
カイがゆっくりと振り返る。
その蒼い瞳が、これまで見せたことのないほど冷たく光った。
「……うるさいな」
声は静かだったが、刃のように鋭い。
「今の僕なら――なりふり構わず、なんでも壊し尽くせちゃいそうだ。
だからさ、少し黙ってて」
リュシアは息を呑み、唇を噛み締めた。
その目に一瞬だけ、嫉妬にも似た光が宿る。
(どうして……どうして、あの娘なの)
カイは背を向け、夜の窓へと歩み寄る。
窓を開けると、冷たい風が流れ込み、髪を揺らした。
次の瞬間、彼の身体が淡い光に包まれる。
空に浮かび、両の手を広げると、広範囲に魔力が流れ出していく。
青白い光が街全体を覆い――
それはまるで、優しい雪のように降り注いだ。
「……これで、澪以外の記憶は消えた」
囁くように呟き、目を閉じる。
「団長、時間です」
リュシアが声をかける。
けれど、カイはすぐには応えなかった。
ゆっくりと地上を振り返り、澪の部屋の窓を見つめる。
そこには、静かに眠る少女の気配。
カイはそっと手を握りしめ、唇をかすかに動かした。
(君のそばで、もう一度、瞬けたなら)
その願いとともに、身体が光に溶けていく。
夜空の彼方へ、ひとすじの蒼が流れた。
まるで、星へ還る魂の軌跡のように――。
蒼い光が夜空へと溶け、風が静かに鎮まっていく。
その光を最後まで見送っていたリュシアは、ゆっくりとまぶたを伏せた。
「……」
その瞳が、次の瞬間――地上の一点へと向く。
澪の部屋。
カーテンの隙間からこぼれる淡い灯りが、まだ温もりを残している。
リュシアは静かに降り立った。
窓をすり抜けるようにして中へ入ると、そこには眠りについた澪の姿。
月光に照らされたその頬は、穏やかで、何も知らない子どものようだった。
「……あなたが、彼の“選んだ”世界なのね」
リュシアの唇が、かすかに歪む。
胸の奥で何かが静かにきしんだ。
それでも目を逸らせずに、彼女は眠る少女を見下ろす。
「……どうして、あなたなんかに」
指先が震える。
リュシアは眠る澪の上に手をかざした。
冷たい光が、その掌に静かに宿る。
「彼がこの世界を忘れられないなら――」
その囁きは、夜気に溶けて消えた。
淡い光がふたりを包み込み、部屋の空気がわずかに揺らめく。
――そして次の瞬間、すべてが静まり返る。
そこにあったはずの気配は消え、月明かりだけが静かに床を照らしていた。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。




