42.触れられぬ世界
冬の朝の光が、白い息のように柔らかく部屋を満たしていた。
低い陽ざしが壁を淡く染め、まだ眠りの残る空気の中で、光の粒が静かに舞っている。
その日は、父が急な出張で家を空けることになった。
朝、スーツケースを引きながら玄関を出ていった父の背中を、澪は見送った。
家の中には、二人分の息づかいだけが残る。
いつもより広く感じるリビングで、澪は少しだけ胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
――カイと過ごす、最後の朝。
言いかけた言葉を、そっと飲み込む。
前の夜に決めた約束――「朝から一緒に買い物して、クリスマスの準備をしよう」――を思い出して、澪は小さく笑った。
心のどこかで、これが“いつも通りの一日”であってほしいと願いながら。
いつもより少しだけ丁寧に髪を整え、白のニットを選んだ。
鏡に映る自分が、どこかよそゆきに見える。
外は冷たい風が吹いていたけれど、頬の奥がどこか火照っている。
玄関の扉を開けると、朝の光が差し込んだ。
その中で待っていたカイが、振り向きざまに微かに笑う。
「今日の君、いつもよりちょっと……“冬”っぽいね」
「なにそれ、どういう意味?」
笑いながら肩をすくめ、二人で並んで家を出た。
街はクリスマス一色だった。
商店街のスピーカーから流れる軽快なジングル、色とりどりの飾り、
パン屋から漂う甘い匂い――どれもが、今日だけ少し特別に感じる。
ショッピングモールでは、二人で食材や飾り付けを選んだ。
澪が「これかわいくない?」「あ、クラッカーも買お!」と歩くたびに、
カイの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
彼にとって、すべてが初めての“冬”だった。
澪が差し出したリボンの赤が、指先をかすめてふと止まる。
その一瞬の温度に、胸の奥がわずかに跳ねた。
――ただ隣にいるだけで、世界が少し柔らかく見える。
その理由を、彼はもう知っていた。
夕方、部屋はオレンジ色に染まり、
二人で作った料理がテーブルいっぱいに並んだ。
グラタンにローストチキン、ミモザサラダに、キャンドルを刺した小さなケーキ。
「じゃあ――始めようか。
クリスマスパーティーと……カイの、さよなら会」
澪の言葉に、カイは静かに頷いた。
ふたりで作った料理を前に、澪がスマホを構える。
「わ、すごい美味しそう! 写真撮っとこ」
カシャ、と小さな音が鳴る。
「――あ、そういえばさ。二人で写真撮ったこと、なかったね」
照れくさそうに笑いながら、澪はスマホを掲げた。
寄り添って撮った写真の中の二人が、ほんの少し眩しい。
撮った画面を見つめながら、澪の胸がふっと詰まる。
一緒に撮る写真は、これが最初で最後なのかもしれない。
そんな予感が、心のどこかを静かに締めつけた。
やがて食卓に戻り、澪がスプーンを手に笑う。
「カイ、これ本当においしいね! お父さんにも食べさせてあげたいな。
“カイが作ったんだよ”って言ったら、びっくりするよ、きっと」
けれど、その言葉にカイの笑みが少しだけ揺れた。
「……おじさんは、僕のことを覚えていないよ。
僕が元の世界に戻るときには、全部忘れる。
“海外から来た甥っ子”っていう設定も、魔法で消えるから」
「え……」
フォークが皿に触れる音がやけに大きく響く。
「じゃあ……学校のみんなも?」
「うん。みんな忘れる」
澪は顔を上げられず、小さく呟く。
「じゃあ……私も、なの?」
カイはほんの一瞬、言葉を失った。
やがて、困ったように目を伏せて言う。
「……うん。そうしないと、僕が帰れないんだ」
カイは少し笑って、肩をすくめた。
「覚えてたら……澪が寂しくなっちゃうでしょ。
僕がいないのに、思い出して眠れなくなったら困るじゃないか。
そうなったら、僕のほうも心配で帰れなくなっちゃう」
冗談めかした口ぶりだったけれど、その声の奥にほんのかすかな揺れがあった。
「だから、君の記憶も……一緒に、消すよ」
澪は唇を噛んで、無理に笑顔をつくった。
「……そっか。それじゃあしょうがないね」
そう言ってスプーンを持ち直し、
「これ、美味しいね」と明るく振る舞う。
カイは、その無理な笑顔の奥にあるものを感じ取っていた。
胸の奥が、痛いほど熱くなる。
(君も……寂しいって思ってくれるんだね)
やがて二人は、出会った日の話や、部活のこと、今までの思い出を語り合った。
笑いながら、時々沈黙して。
言葉の合間に訪れる静けささえも、いとおしく思えた。
「そういえばさ、カイ。向こうに帰ったら……数年分、時間が進んでるんだよね?
カイの家族、きっとびっくりするね」
カイは少し首を振った。
「……僕に家族はいないんだ」
「え……そうなの?」
澪が驚いて尋ねると、カイは静かに微笑んだ。
「亡くなった。――そう言うのが正しいかな。
僕を“産んだ人”は、僕が五歳のときに死んだ」
その“産んだ人”という言葉に、澪の胸に小さな違和感が残った。
けれど、それを問い返すことはできなかった。
代わりに澪は、カイの顔をそっと見つめる。
キャンドルの灯が、彼の白銀の髪に揺れていた。
静かな時間が流れていた。
外では風が木々を揺らし、遠くで車のライトが窓辺を照らしては消えていく。
澪はフォークを置いて、ふと口を開いた。
「でも……カイの帰りを待ってくれてる人、いるんだよね?」
問いかける声は、どこか願いのようだった。
けれどカイは少しだけ考え、ゆっくりと首を振った。
「僕が帰ってくるのを待ってる人なんて、きっといないよ」
「え?」
澪は思わず手を止めた。
「またまた、そんなこと言って。カイ、モテるし……向こうでも女の子たちが首を長くして待ってるでしょ?」
冗談めかして笑う澪に、カイはふっと目を伏せて、静かに笑った。
けれどその笑みは、どこか哀しげだった。
「彼女たちが欲しいのは“僕”じゃない。
僕に“愛される自分”だよ。
だから――本当に僕の帰りを待っている人なんて、いないんだ」
その言葉が、胸の奥に冷たい風のように刺さった。
澪はうまく言葉を返せず、ただ小さく息を呑む。
「……じゃ、じゃあさ」
少し声が震えた。
「こっちにずっといればいいじゃん。
カイに呪いをかけた悪い魔法使いも、向こうに帰ればまだいるんでしょ? だったら――」
言いかけた瞬間、カイの笑顔がわずかに揺らいだ。
その目の奥に、痛みが滲む。
「……僕は、帰らないといけないんだ」
低く、けれど優しい声だった。
澪はその顔を見たまま、言葉を飲み込んだ。
(あ……)
喉の奥がきゅっと痛くなる。
「ごめん。勝手なこと言って」
小さく笑って、スプーンを手に取る。
「……料理、冷めちゃうね」
そう言って口に運んだ味は、さっきより少しだけしょっぱく感じた。
胸の奥が波のように揺れる。
視界の端で、カイが静かに微笑んでいる。
その優しさが、今はどうしようもなくつらかった。
――少しの沈黙。
澪がゆっくりと姿勢を直す。
「……カイ」
呼ばれて顔を上げると、澪の視線がまっすぐに向けられていた。
「これ、受け取って」
そう言って、澪はそっと隣の椅子に置いていた紙袋を手に取った。
白いリボンで包まれた小箱を取り出し両手で差し出す。
「クリスマスプレゼント。……メリークリスマス」
カイは微笑み、静かに受け取った。
「ありがとう。……開けてもいい?」
澪は頷く。
カイは丁寧にリボンを解き、紙を一枚ずつ開いていった。
箱の中から現れたのは、柔らかな白のニット手袋。
手首の縁には、銀糸で小さな雪の結晶が刺繍されている。
カイは手に取り、指を通す。
編み目の間から淡い光が滲むようで、まるで冬の朝の霜を纏っているようだった。
「……ぴったりだ」
澪の唇に小さな笑みが浮かぶ。
「カイ、いつも手、冷たいでしょ。
この手袋が――カイの手を温めてくれるように」
その言葉に、カイの喉がわずかに動く。
「ありがとう。……大切にするよ」
澪の頬がやわらかく緩む。
その笑顔を見つめながら、カイはそっと呼吸を整える。
そして、今度は自分のポケットから小さな箱を取り出した。
「僕からも――贈りたいものがある」
澪が目を瞬かせる。
カイが差し出した小箱を開くと、細い金のチェーンに雫型の青い石が揺れていた。
ライトの光を受けて、小さな星のように瞬く。
それは、彼が帝都の片隅で見つけた小さな飾り細工屋で買ったものだった。
いつか、彼女に渡すために。
「……きれい」
澪は手のひらでその石を包み、光に透かした。
青い光が、彼女の指のあいだからこぼれる。
「カイの瞳の色と同じ……」
言いながら、ふっと笑う。
「すごく、綺麗だね」
カイの肩がわずかに震えた。
一瞬、瞳が大きく開かれる。
次の瞬間、片手で顔を覆い、俯いた。
その唇が、小さく震えていた。
「……どうしたの?」
澪が首を傾げる。
「ううん。なんでもない」
カイはゆっくり顔を上げ、静かに笑った。
「この石にはおまじないをかけてある。
君を守ってくれるようにって。……つけてもいい?」
澪が頷くと、カイはそっと背後にまわり、ネックレスをかけた。
鎖が肌に触れるたび、微かな震えが伝わる。
手の動きが止まり、指先がわずかに揺れた。
言葉にしない想いが、沈黙の中で交わる。
澪が振り返るより早く、カイは一歩下がり、穏やかな笑みを浮かべた。
「……似合ってるよ、澪」
言葉を置いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
この景色を、もう二度と触れられない場所にしまう。
永遠に届かない祈りのように。
「……そろそろ、時間だね」
その言葉に、澪の肩がぴくりと震える。
なにかを言いかけて、唇が震え、けれど声にならない。
やがて、ただ小さく頷く。
窓の外では、雪が音もなく降り続いていた。
時計の針が、二人の時間を静かに削っていく。




