41.変わる世界
朝の空気は澄んでいて、息を吐くたびに白がふわりとほどけた。
カイと並んで歩く通学路。街路樹の枝に薄く積もった雪が、時おりぱらりと落ちて足元を濡らす。
「おはようございます、澪先輩ー!」
通りの向こうから、ひなたとりりあが駆け寄ってきた。
二人ともマフラーに顔をうずめながら、それでも笑顔は明るい。
「先輩! 二十四日、ソフトテニス部でクリスマスパーティーやるんです!
引退した先輩たちも呼んで、みんなで集まろうって!」
「え、そうなんだ。楽しそうだね」
澪が足を止めると、りりあが期待に満ちた目を向けてくる。
「だから、澪先輩も来てくださいよ! カイ先輩も一緒に!」
その言葉に、澪は一瞬だけ息を呑んだ。
けれど、すぐに穏やかに笑って首を振る。
「ごめんね。その日は……約束があるんだ」
「えぇ〜! そうなんですか、澪先輩が来られないなんて、寂しすぎる」
りりあが肩を落とし、ひなたが苦笑する。
それでもりりあは諦めきれない様子で、今度はカイの方へ向き直った。
「じゃあ、カイ先輩だけでも! 一緒にパーティーしましょう?」
カイは少しだけ目を細め、静かに首を横に振った。
「ごめん。僕もその日は大切な約束があるんだ」
「カイ先輩まで〜……!」
りりあが大げさにため息をつき、ひなたが笑いながらりりあの肩を叩く。
澪はそんな二人に微笑んで言った。
「みんなで楽しんでね。写真いっぱい撮って、あとで見せてよ」
「はーい! ……でも、ほんとに残念です!」
りりあとひなたが手を振って走り去っていく。
その背中を見送ってから、澪はそっとカイに目を向けた。
――その日は、カイが元の世界へ帰る日。
二人で過ごす、最初で最後のクリスマス。
“さよなら”を言うための日。
はじめは、澪もみんなを呼んで、にぎやかに見送ろうかと提案した。
けれどカイは、静かに首を振った。
『できれば……最後は、君と二人きりで過ごしたい』と
その声音は、どこか遠くを見ているようで、でも確かに澪を見つめていた。
胸の奥が静かに疼く。
だけど笑顔を保ったまま、澪は小さく息を吸った。
――あのときの静けさが、まだ心の奥に残っている。
彼の言葉を思い出すたび、胸の奥が少しだけあたたかく、少しだけ痛む。
(あ……しまった。カイへのプレゼント、まだ用意してない)
思い出した瞬間、足を止めた。
「カイ、今日ちょっと寄り道して帰りたいから、先に帰っててくれない?」
カイは即座に首を振った。
「ダメ」
「えっ、なんで?」
「寄り道したいなら一緒に行くよ。澪の用事が終わるまで待ってるから」
声は穏やかだったけれど、その目の奥には静かな決意が宿っている。
「えぇ……でも今日は――」
「残された時間が少ないから――」
カイは澪の方を見た。
「澪と話しながら歩く帰り道が、僕は好きなんだ。だから、一人で帰るっていう選択肢は、ない」
その真っ直ぐな言葉に、澪は胸が締めつけられるような思いで、うつむいた。
そして、小さな声で告げる。
「……正直に言うとね」
「うん?」
「実は、クリスマスプレゼント、まだ用意してなくて」
カイの瞳が少しだけ見開かれる。
それから、ふっと笑った。
「じゃあ――今日一緒に帰る時間が、僕へのプレゼントでいいよ」
澪は一瞬、ぽかんとした。
「えっ……?」
隣を歩くカイが、夕焼けの光に目を細めている。
冗談めかした笑みだけど、その瞳の奥が少し寂しそうで、なぜだか胸がきゅっとなった。
「そんなの、ダメだよ」
澪は慌てて首を振る。
「ちゃんと用意したいの……最後なんだから」
言葉にすると、胸にキュッと痛みが走る。
カイはそんな澪を見つめ、ふっと息をもらした。
「僕は、それで十分なんだけどな」
困ったように笑うその顔が、どうしようもなく優しくて、澪は息を詰めた。
その笑顔を見つめながら、胸の奥で言葉にならない思いが膨らんでいく。
「……わかった」
少しだけ微笑んで、澪は頷いた。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
カイは嬉しそうに頷いた。
その瞬間、淡い冬の陽が雲の切れ間からこぼれ、二人の間に柔らかな光が降りた。
(――カイと帰るあの時間は、私にとってもかけがえのない時間になった。
今なら、その意味がわかる気がする)
白い息がふたつ、同じ方向に溶けていった。
***
最後のチャイムが鳴り終わり、ざわめく教室をあとにした。
昇降口を出た瞬間、白い息が空にほどける。
一日の授業を終えた校舎の窓には、夕暮れの光が淡く映り、
冬の陽はすでに傾きかけていた。
街の灯りがひとつ、またひとつと灯り始め、放課後の空気がゆっくりと夜に変わっていく。
「やっぱり、買い物して帰りたいからさ」
澪がリュックを背負い直しながら言う。
「その時だけ、お店の外で待ってて。すぐ終わるから」
カイは小さく目を細めて笑った。
「わかったよ。……まってるから、ゆっくり選んで」
「うん」
並んで歩く二人の足音が、イルミネーションに照らされた歩道に重なっていく。
ショッピングモールの入口からは、暖かい空気と甘い焼き菓子の匂いが流れ出していた。
中へ入ると、館内放送で流れるクリスマスソングが微かに響く。
澪はショッピングモールの二階、温もりを帯びた照明のセレクトショップの前で足を止めた。
ガラス越しに並ぶコートやマフラーが、どれもカイに似合いそうに見える。
「ここで待っててね。……なに買ったか見ないでよ?」
「見ない見ない」
カイは軽く手を上げて、笑いながら近くの柱のそばに立った。
レジから見える距離。けれど、ほんの少し背を向けて――まるで見守るみたいに。
澪は人の流れの中をすり抜け、お店へ入った。
ガラス越しに見えるカイの背中は、相変わらず真っ直ぐで、
それを見ただけで胸の奥が少し痛くなる。
(……ちゃんと何にするか考えてきたんだ。喜んでくれるといいな)
店内には、落ち着いた色合いの服が整然と並び、
スポットライトが冬の布地をやわらかく照らしている。
澪はディスプレイ棚の前で足を止めた。
並べられた商品を前に、そっと息をのむ。
(どれが一番、カイに似合うかな……)
視線の先には、彼に似合いそうなものがいくつもあった。
落ち着いた色合いの棚の前で、澪はそっと足を止める。
どれも悪くない。けれど、どれも“ぴんとこない”。
指先で一つひとつ確かめながら、心の中で何度も比べていく。
素材の手触り、色味、形――どれを取ってもわずかに違う。
けれどその中に、ふと視線を奪われるものがあった。
それを手に取った瞬間、胸の奥でなにかが静かにほどける。
「……うん、これだ」
小さく息を呑んで、選んだ品を抱きしめるように持ち上げた。
レジに品を置くと、店員がにこやかに微笑んだ。
「ラッピングされますか?」
「はい、お願いします」
リボンを選びながら、澪は無意識に窓の外を見た。
レジカウンターの奥、ガラス越しにカイの姿が映っている。
夕方の光が彼の髪を照らして、まるで溶けかけた雪のように柔らかかった。
そんな澪の視線に気づいたのか、店員が声をかけた。
「あちらで待ってらっしゃる方に、ですか?」
「え?」
澪は思わず顔を上げる。
「……あっ、はい。その……そうです」
口にした瞬間、頬が熱くなる。
店員が微笑む。
「素敵ですね。喜ばれると思いますよ」
リボンを結ぶ音が、心臓の鼓動と重なって聞こえた。
紙袋を受け取った手の中に、ほんの少し震えが残る。
振り返れば、ガラスの向こうでカイが待っている。
遠くても、ちゃんと見える距離。
その姿が、まるで光に縁取られた幻のように美しくて――澪はそっと息を吐いた。
(……ありがとう、カイ。
あなたに出会ってから、世界が少しだけ違って見えるんだ)
紙袋を抱えて、澪は店を出た。
そして、カイの隣に並んだ。
胸の奥に、まだ秘密の温もりを隠したまま。




