40.願い
氷のような静寂が、広間を支配していた。
石造りの床は月光を閉じ込めたように冷たく、天井から吊るされた魔導灯が、薄く蒼白い光を落としている。
その中心に、リュシアは膝をついていた。
「白月花は――枯れました」
声が吸い込まれていく。
「……あの娘も、“星永の乙女”ではなかったようです」
玉座の上、闇の奥から重い呼吸が響いた。
帝国の頂に君臨するただ一人の支配者――
皇帝ドミナス・ヴァルディア。
玉座の脇には、黒衣の魔導士モルフェウス・アストレイアが控えている。
その腕には、淡く蒼光を放つ腕輪が巻かれていた。
「……また、失敗か」
ドミナスの声は低く、石壁を震わせるほどに深かった。
「幾度も繰り返されては落胆させられる。星永の乙女は、どこまで私を嘲るつもりだ」
ゆっくりと玉座の肘掛けに手を置き、冷ややかに続ける。
「――あの男はどうした? 一緒ではないのか」
リュシアの肩が小さく揺れる。
「“しばらく今の場所に留まる”と。まだ新たなる白月花を摘まずにいます……」
短い沈黙。
その間、ドミナスの視線が、わずかにモルフェウスへと滑る。
魔導士は微動だにせず、腕輪を覆うように指を組んでいた。
蒼石が、かすかに脈動する。
「花が枯れたというのに、娘の傍にとどまるだと?」
ドミナスの声が、刃のように鋭く広間を切り裂いた。
「今までなら、あの男は躊躇なく帰還したはずだ。……何を見て、何を感じている?」
視線が、リュシアの首筋を撫でる。
「心など、とうに失われたはずだったのにな」
リュシアは息を詰め、膝の上で指を握りしめた。
「ふむ……」
ドミナスは立ち上がる。
漆黒の外套が波のように広がり、玉座の下に影を落とす。
「――興味深いな。あれほど何にも興味を示さなかった男が、心を縛られるほどの存在を見つけたか」
唇がゆるやかに歪む。
モルフェウスが静かに腕を上げた。
袖の下から、腕輪の蒼石が露わになる。
光が、ひときわ強く脈打った。
「面白い反応だな、モルフェウス」
ドミナスがくすりと笑う。
「その魂が、主を恋い慕っているのかもしれぬ」
モルフェウスは一礼し、短く言葉を返す。
「陛下の御心のままに」
ドミナスはその返答を愉快げに受け流し、リュシアの方へ視線を向けた。
「リュシア。カイの監視を命ずる。気づかれぬように動け」
その声を合図に、モルフェウスが一歩前へ出る。
袖の奥から掌をかざすと、赤い宝石を嵌めた小さなブローチが空中に浮かび上がった。
光を帯びたそれが、ゆるやかにリュシアの前へと滑り出す。
「これを持て」
モルフェウスの声は低く、冷たい水のように静かだった。
「魔具の結界が、あれの感知を欺く。――“変化”を見逃すな」
リュシアはそれを両手で受け取り、深く頭を垂れる。
ブローチの赤が彼女の指先に映り、わずかに震えた。
「……承知しました」
リュシアはそれを両手で受け取る。
掌の熱が吸い取られていくような冷気が走る。
彼女は深く頭を垂れ、そのまま静かに後ずさった。
重い扉が閉まると、広間に再び沈黙が訪れた。
ドミナスは玉座へ戻り、腕を組む。
「……あの傀儡に、心が芽生えたか。実に滑稽だ」
その視線の先、モルフェウスが腕輪を見つめている。
「お前はどう思う、モルフェウス」
「――魂の光とは、時に主の意思を超えるもの。陛下の御計画に支障が出ぬよう、早急に処置いたします」
ドミナスの唇がわずかに吊り上がった。
「よい。だが、あれは替えの利かぬ駒だ。
心が芽吹こうとも、花が咲く前に摘み取れ――根を絶やすことなく、な」
玉座の脇で、蒼光が一閃する。
モルフェウスの腕輪の石が、微かに呻くような光を放った。
その音を、ドミナスはまるで子守唄でも聴くように、静かに目を閉じて受け入れた。
***
窓の外は、いつの間にか夕暮れに溶けていた。
教室にはエアコンの低音だけが響いて、ページをめくる音がときどき混じる。
ノートの上に鉛筆の影が伸びる。
澪は問題集に視線を落としながら、となりの詩音に声をかけた。
「ねえ、ここの関数のとこ、どうやって解くんだっけ」
「それ? 対称式使うやつだよ」
「ああ……それね」
答えながらも、全然覚えていなかった自分にちょっと笑ってしまう。
「冬ってさ、眠くなるね」
「受験生の言うことじゃない」
「正論」
詩音のつっこみに、ふたりで笑い合う。
窓際の席から見えるグラウンドは、白く息を吐く下級生たちで賑やかだった。
かつて自分もそこにいた。
声を張って、泥だらけで、何も怖いものなんてなかった。
――でも今は、少し違う。
あの頃の自分が“遠く”に見える。
鞄を閉じると、外はすっかり夜の色。
昇降口の前で息を白くしていたカイが、手を上げた。
「おつかれ、澪」
街灯の下、白銀の髪が淡く光をまとっている。
少し冷たそうな指先をポケットに入れながら、カイはどこか柔らかい目をしていた。
「カイ。お待たせ、今日買い物あるんだっけ?」
「うん。おじさんから“醤油と卵”買ってきてって」
「人使いの荒い父でごめん」
澪が苦笑まじりに言うと、カイの口元がわずかに上がる。
「お役にたてて、光栄だよ」
その穏やかな声に、澪はつい吹き出した。
冷たい空気の中、二人の笑みが白い息といっしょにほどけていった。
並んで歩く帰り道。
街の灯りが橙色に滲み、コンビニの看板の光が雪の粒に反射して瞬いている。
道の端では、小学生たちが舞い降りる雪を掴もうと手を伸ばし、笑い声をあげていた。
その何でもない光景が、どうしようもなく胸の奥をあたためた。
信号待ちの歩道で、白い息がふたりの間にふわりと浮かんだ。
澪がふと横を向き、マフラーの端を指先でいじりながら言う。
「ねえ、カイってさ、最近なんか変わったよね」
「え?」
カイが目を瞬かせる。
「どんなふうに?」
澪は少し考えるように視線を落とした。
「んー……うまく説明できないけど」
言葉を探しながら、吐く息が白く揺れる。
「前はもっと、何考えてるのか分かんない人だなって思ってたの。
でも最近はね――“あ、今ちょっと嬉しそう”とか、“怒ってるのかな”とか、わかるようになった気がする」
カイは目を細めて、静かに問い返した。
「それって……僕が変わったの?」
「え? そうでしょ?」
澪が笑うと、頬の赤みが街灯の光を受けてやわらかく滲んだ。
カイは少しの間、澪を見つめたまま言葉を選んだ。
「……それって、いいことなのかな」
澪はきょとんとして、それから小さく首を傾げた。
「うん。だって――私は今のカイのほうが、好きだよ」
その言葉に、カイの胸の奥で何かが静かに弾けた。
雪がひとひら、二人のあいだに落ちて、光の粒のように溶けていった。
ほんの少しだけ距離が近づいて、でもまだ、届かない。
家に帰ると、お父さんがリビングで新聞を読んでいた。
「おかえり、澪。カイ、買い物助かったよ」
「どういたしまして」
「今週寒波くるらしいぞ、二人とも受験生なんだから風邪ひくなよ」
「わかってるって」
そんな他愛もない会話が、家の中をあたためていく。
夕飯の鍋から立ちのぼる湯気の向こうで、カイが静かに笑っていた。
その横顔を見ながら、澪はふと思った。
カイと食卓を囲む――そんな時間は、あとどれくらい残されているんだろう。
夜更け。
澪はノートに走らせていたペンを止め、ため息をひとつ落とした。
ページの端に滲んだインクが、ぼんやりと光を反射している。
(……もう少しだけ、頑張ろ)
心の中でそう呟いて伸びをした、その瞬間――
「コン」と、ドアが小さく鳴った。
「まだ起きてたの?」
カイが顔をのぞかせる。
「うん、英語が全然頭に入らない」
「じゃあ、少し休憩しよう」
カイはココアの入ったマグカップを2人分持って部屋に入ってきた。
外では、夕方から舞い始めた雪が、街灯の下で白くきらめきながら、ゆっくりと降り続いていた。
二人は湯気の立つココアを手に、並んで窓辺に座っていた。
ココアの香りに混じって、遠くから電車の音が聞こえてきた。
カイが、湯気の向こうにぼんやりと視線をやる。
「この世界の夜空は、少し優しいね」
澪はカップを唇に寄せたまま、首をかしげた。
「夜空が……優しい?」
少し考えてから、問い返す。
「カイの世界の夜空って、どんな感じなの?」
カイは目を伏せ、少しだけ間を置いた。
「……こんなに明るくない。星もほとんど見えないし、夜になると魔物が出る」
淡々とした口調のまま、カイは続けた。
「夕方から夜にかけて、空気の中に魔力が濃くなっていくんだ。
吸い込むと、少しだけ息が詰まる。今はもう慣れたけどね。
子供のころは、空気を吸うたびにその魔力まで肺に入って……毎晩、咳き込んでた」
澪はそっとカップを置いた。
「……そんな世界で、生きてたんだ」
その言葉は、驚きでも同情でもなく、ただ静かな感情としてこぼれた。
カイは軽く笑う。
「でも、不思議と恋しいんだ。あの夜の空気も」
「苦しいのに?」
「うん。……たぶん、そこが僕の“始まり”だから」
澪はその横顔を見つめた。
湯気の向こうで、彼の瞳が夜の色を映している。
窓ガラスに映る二人の影が、同じカップを持って並んでいた。
それがなぜか、胸の奥に焼きついた。
けれど、ふと――胸の奥に小さな疑問が浮かんだ。
気づけば、あの言葉をしばらく口にしていなかった。
「ねえ、カイ」
「うん?」
「“今日のお願い”ってさ……もう、しなくていいのかな」
カイが、わずかに目を伏せた。
「どうして?」
「だって、呪い……解けたんでしょ? だからもう、お願い叶えてもらわなくてもいいんだよね」
澪がそう言って笑うと、カイのまつげが小さく震えた。
返事の代わりに、カイはゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
「……そうだね。もう、願わなくていい」
その声は、どこか優しくて、どこか寂しかった。
澪は気づかない。
その“もう”の意味が、自分とカイで違っていることを。
カーテンの隙間から、月の光がこぼれていた。
その静けさの中で、澪は胸の奥にわけのわからない痛みを抱えながら、ただ微笑んだ。
――“今日のお願い”がなくても、いい。
そう思いながらも、心のどこかでそっと願っていた。
明日も、あさっても、その次の日も。
カイが隣にいて、こんな何気ない日々が、もう少しだけ続きますように。




