38.嘘
光の渦がほどけきらないうちに、カイが低く言った。
「……なに?」
苛立ちが、声の端でかすかに鳴った。
現れた女は一瞬たじろぎ、紫の睫毛が震えた。
「……あの、団長」
リュシアは澪にちらと視線を流し、言葉を選ぶように続ける。
「モルフェウス様のご命令です。白月花の様子を確認してくるようにと」
カイは一拍置いて、何事もなかったかのように肩をすくめた。
「花は……枯れたよ」
リュシアの瞳が見開かれる。
「……では、その娘が“禁忌の願い”を口にしたのですか」
「そうだよ。見ての通り――わかるだろう?」
カイは自然な仕草で、隣の澪の肩に腕を回した。
澪が小さく身じろぎする。驚きと困惑が混ざった息が、喉元で引っかかった。
リュシアの表情に、冷たい影が差す。
だがほんの一瞬、伏せた睫毛の奥に痛みが走った。
その揺らぎを、彼女自身が押し殺すように言葉を紡ぐ。
「……今回の娘も、白月花に選ばれなかった、ということですね」
言葉の温度がぐっと下がる。
「念のため、花を確認させてください」
カイとリュシアの視線が絡む。
淡い火花のような沈黙。
そこで、澪が遠慮がちに手を上げた。
「ちょっと、話の途中ごめん。――カイ、この人は?」
カイが口を開きかける。
それを遮るように、リュシアが冷ややかに言い捨てた。
「団長の美に囚われ、禁忌の願いを口にした娘に名乗る名はありません」
「はあ?」
澪の眉が跳ねる。
「禁忌の願いって何それ。ていうか“団長”ってカイのこと? “美に囚われた”ってわたしが? 色々と失礼じゃない? 初対面で」
いつも通りの調子に、カイの口元から小さな笑いが零れる。
リュシアはわずかに目を細めた。
「なんという物言い……中身も“星永の乙女”らしからぬ娘でしたね」
「星永の乙女とか禁忌の願いとか、わけわかんない単語ばっかり投げないで」
澪はカイを見た。
「ねえ、カイ。この人、何言ってるの?」
カイは腕をそっと外し、澪とリュシアのあいだに短い溜息を置く。
「紹介するよ。彼女は僕の世界――ヴァルディア帝国の第二宮廷魔導士団副団長、リュシア・ヴァレンティナ。
……僕の部下だ」
「帝国? 魔導士団?」
澪の声が少し上ずる。
「めっちゃファンタジーなんだけど……」
一瞬、困ったように笑い、カイの顔を覗き込む。
「――あ、もしかしてさ、カイの“呪い”が解けたの? だから仲間が迎えに来た、とか?」
その無邪気な推測が、カイの胸に小さく刺さる。
嘘を信じてくれるやさしさが、いちばん痛い。
カイは視線をリュシアに戻した。
「だからさ、リュシア。僕は――もう少しこっちで過ごす。
それから一度戻って、新たな白月花を摘みに行く。……先生には、そう伝えておいてくれる?」
リュシアは黙ってカイを見返した。
瞳の底で、何かがきしむ。
やがて、形だけの礼を添えて小さく頷く。
「……承知しました」
そして、澪に向ける視線だけが鋭かった。
刺すような冷光。
つぎの瞬間、淡い光の渦が起こり、彼女の姿は音もなく掻き消えた。
残された部屋に、時計の秒針だけがやけに大きく聞こえる。
窓の外、十二月の風が細く鳴いた。
澪はまだ状況を飲み込めずに、カイの横顔を見つめていた。
カイはゆっくりと息を吐き、笑おうとして――うまく笑えなかった。
リュシアの光が消え、部屋が静けさを取り戻した。
澪はしばらくぽかんと立ち尽くしていたが、やがてカイの方へ振り返った。
「……ねえ、カイ。あの人、帰っちゃったけど……大丈夫なの?」
澪の声には、不安と安堵が入り混じっていた。
カイは少し笑ってみせる。
「うん。もう大丈夫。……僕の呪いはもう、解けたみたいだ」
「ほんとに!?」
澪の目がぱっと輝いた。
「よかった……! これでもう、カイは自分の世界に帰れるんだね」
その眩しい笑顔が、胸の奥を鋭く刺した。
嘘だ――そう言いかけて、喉の奥で言葉が消える。
カイは穏やかな声で続けた。
「予定より少し早かったけどね。……でも、本来なら二十四日で完全に解けるはずだった。
だから、それまではここにいようと思う。いいかな?」
「もちろん!」
澪はわざと少し大げさに笑ってみせた。
「じゃあさ、その日……クリスマスパーティーと、カイのさよなら会、一緒にやろうよ」
カイはその笑顔から目をそらして、唇の端だけで笑う。
「……うん。楽しみにしてる」
「約束ね」
澪はそう言って立ち上がった。
「映画も終わったし、そろそろ寝よっか」
澪は部屋を片付けるとドアを開けた。
「カイ、おやすみ」
ドアが閉まると、世界がふたたび静まり返る。
カイはしばらくその場に立ち尽くし、ゆっくりと手を上げた。
掌に、白月花の光が宿る。
柔らかな光が部屋の中に広がった。
けれど次の瞬間――その花を、カイはぐしゃりと握りつぶした。
光が指の隙間からこぼれ、淡く消えていく。
(これでいい……)
胸の奥で、自分に言い聞かせる。
(たとえ離れ離れになっても、彼女を帝国に渡すことになるより……)
手の中に残った銀の粉が、静かに床に落ちた。
カイはベッドに身を沈め、天井を見上げた。
瞼の裏に、さっきの澪の笑顔が浮かぶ。
触れようとして、止めた手。
その手が、まだ熱を覚えている。
――カイはもう一度、天井に向かって手を伸ばした。
指先が、空を掴むように宙をさまよった。
彼女のぬくもりは、どこにもないのに、
そこに確かに残っている気がした。




