37.瞳の奥
夜の静けさは、昼のざわめきよりも重たい。
ベッドの端に腰かけ、カイは白月花を見つめていた。
淡く光を放ちながら咲く花弁が、暗い部屋の空気を照らしている。
その光は、以前よりも澄んでいた。
澪の魂を映す鏡――その花は、枯れるどころか、むしろ息をするように美しさを増している。
星のかけらを散らしたような光が花芯で瞬き、カイの瞳にも同じ輝きが揺れた。
指先でそっと花弁に触れる。
冷たくも温かくもない感触。
けれど、胸の奥が痛んだ。
もう、この光を見られる日々は長くない。
(どうして、こんなにも――)
言葉にならない想いが喉の奥で溶ける。
恋を知った代償は、あまりにも不器用で、息苦しい。
帝国に戻れば、モルフェウスの命令に逆らえない。
もし白月花がこのまま咲き続ければ、澪が“星永の乙女”であることが知られてしまう。
その瞬間、彼女は連れ去られる――。
胸の奥に、冷たい刃が突き立つような痛みが走った。
この世界に、彼女がいない未来など、許せなかった。
(差し出すなんて、できるはずがない)
静かに、けれど確かに心の底でそう呟いた。
花の光がふっと強まり、まるでその決意に呼応するように淡く脈打つ。
カイは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
(たとえこの身が流星となり、再び空を彷徨うことになろうとも――)
その時、軽いノックの音が響いた。
光がわずかに揺れる。
カイは顔を上げた。
「カイ、起きてる?」
白月花が淡く瞬き、彼は慌てて手をかざした。
光はふっと掻き消え、部屋が現実の闇に戻る。
「うん、どうしたの」
ドアを開けると、澪が立っていた。
パジャマ姿にパーカーを羽織り、片手にはジュースとお菓子の袋。
「明日休みだからさ、映画でも見ない?」
澪はにこっと笑って、お菓子を掲げる。
「詩音にすすめられたやつなんだけど、ホラーなんだよね。一人で見るの怖くてさ」
カイは一瞬だけ視線を逸らした。
「……ごめん。もう寝るつもりだったんだ」
「えー、そこをなんとか」
澪はまったく引かない。
「じゃあさ、今日のお願い! “カイと一緒に映画を見て夜更かしして、楽しい週末を過ごす”」
そう言って、両手でお菓子を差し出した。
子どものように無邪気な笑顔。
カイは小さく息を吐いた。
「……今日のお願い、ね。仕方ないな」
「やった!」
澪はぱっと笑顔を広げた。
「じゃあ私の部屋で……あ、カイの部屋でもいいや。途中で寝てもいいからさ」
そう言って、お菓子とジュースをカイに押しつけると、
「タブレット持ってくる!」と小走りに部屋を出ていった。
ドアが閉まる音が響く。
カイはしばらくそのまま立ち尽くした。
胸の奥で、小さな波紋がいくつも重なっていた。
澪への想い。ほかの男と話す彼女を見た瞬間に走った、説明のつかない痛み。
そして残り少ない時間。
それなのに、たった今、澪の笑顔ひとつで世界が柔らかくほどけてしまう。
(どうして……君の傍にいるだけで、こんなにも心が揺れるんだ)
やがて足音が戻ってきた。
ドアが開き、澪がタブレットを抱えて入ってくる。
「お待たせ。準備完了」
その声が部屋の空気を明るく染める。
椅子の上にタブレットを置き、再生を押す。
ふたりで並んでベッドに腰を下ろすと、画面の光が顔を照らした。
映画が始まる。
恋人をゾンビにされた少女が、治療薬を求めて荒れ果てた街を駆ける。
澪はクッションを抱きしめ、びくびくしながら身を乗り出す。
カイは壁にもたれ、足を伸ばしたまま無言で画面を見つめていた。
けれど、目の端では澪の横顔を捉えている。
真剣に見入る瞳、揺れる睫毛、唇がわずかに開く瞬間。
恐怖に反応して肩をすくめるたび、髪が頬にかかる。
そのささやかな仕草が、胸の奥に痛いほど美しかった。
(こんな時間が、ずっと続けばいいのに)
そう思ってしまった自分に、カイはそっと目を伏せた。
タブレットの光が二人の頬を交互に照らす。
映画の中では嵐が近づき、主人公たちが身を寄せ合っている。
部屋の外では風の音が遠くに唸り、
まるで映画の世界と現実の境界が溶けていくようだった。
そんな静けさの中で、カイはふいに声を落とした。
「ねえ」
低く、けれどどこかためらうような響きだった。
澪がきょとんとして振り返る。
「今日、田辺と……何話してたの」
「え? なに急に」
「別に。ちょっと気になっただけ」
「たいした話してないよ」
澪がそう答えると、タブレットの画面に稲妻が走った。
その光が一瞬だけ部屋のライトの柔らかな明かりと重なって揺れる。
澪は息を詰めたまま、画面を見つめている。
肩がかすかに震え、クッションを抱きしめる手に力が入っている。
その仕草に、カイの胸の奥が不意に疼く。
「……澪は笑顔だったね」
「え? なにそれ」
自分でも、どうしてそんな言葉が出たのかわからなかった。
止めようとしても口が勝手に動く。
「……彼に、告白でもされたの?」
澪が盛大にため息をついた。
「映画に集中してるんですけどー」
軽く言いながらも、澪は一瞬だけ視線を逸らした。
そのまま口を結び、何かを言いかけて飲み込むように黙り込む。
カイはそのわずかな沈黙を拾い上げるように見つめた。
胸の奥で、理由のわからないざわめきが広がっていく。
「どうしたの?」
「……別に。誤魔化すんなら、もういいよ」
声が掠れる。
澪が驚いたように黙り、カイは布団に潜り込んだ。
目を閉じて、息を整える。
映画の音だけが、淡く流れ続けていた。
登場人物の悲鳴も銃声も、遠い世界の出来事のようだ。
その音が途切れるたびに、時計の秒針がやけに大きく響いた。
カイは目を閉じたまま、胸の奥の鼓動を数えていた。
澪の気配が、近くにあるのがわかる。
それだけで、息が浅くなる。
――そして、映画の音がふっと止んだ。
「……あのね」
その声は、やさしかった。
「田辺君にこの前、告白されたの。……でも断ったんだ。
それでも諦めてくれなくて、この前の打ち上げの時みたいになるのが嫌で、今日ちゃんと話してきたの。
今もこの先も、その気持ちには応えられないって」
静かな言葉が空気を震わせる。
「カイはいつもそばにいてくれて心配してくれるのに、ちゃんと話してなくてごめんね。
こういうの、話しづらかったんだ」
布団の中のカイは何も言わない。
ただ、呼吸の音だけが、静かな部屋に溶けていく。
外では、風が街路樹の葉をかすかに鳴らしていた。
その音が遠くで途切れ、また戻ってくるたびに、夜の静けさが深まっていく。
澪はその音にかき消されるような声で、小さく呟いた。
「……寝た?」
返事はない。
だけど、どこかくすぐったい沈黙が続く。
澪は小さく息をつき、ためらいながら布団の端をめくった。
淡い光の中に、蒼い瞳があった。
息を呑むほどまっすぐで、壊れそうなほど静かな光。
その瞳に見つめられた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
「あはは……寝たふりか」
冗談めかした声が、思っていたよりも震えていた。
その笑顔が、カイの胸の奥で何かを突き破った。
理性よりも先に、心臓が動いた。
伸ばしかけた手が、空気を掴むように宙で止まる。
あと少しで届く距離。
澪の髪の香りが、微かに鼻をかすめた。
呼吸が浅くなる。
触れてしまえば、もう戻れない――
そんな予感だけが、胸の奥で膨らんでいく。
カイは拳を握り、震える手をゆっくりと下ろした。
それでも、胸の鼓動は止まらない。
「あ……」
澪が何かを言いかけたとき、カイは小さく首を振った。
「……ごめん」
その声は、風に溶けるほど小さかった。
互いの視線が、静かに絡み合っていた。
部屋の空気がほんの一瞬止まり、呼吸の音さえ遠のく。
カイの蒼い瞳が澪を映し、澪はその奥に何か言葉にできないものを感じ取っていた。
――その時だった。
空気がふっと震えた。
澪の髪が微かに揺れる。次の瞬間、淡い光が部屋の隅で渦を巻き、静かな唸りを上げながら広がっていく。
光の粒が宙を舞い、夜の闇を押しのけるようにきらめいた。
「……なに、これ……?」
澪が息をのむ。
渦の中心に人影が形を取り、やがてそこに一人の女性が立っていた。
長い濃紫の髪を揺らし、同じ色の瞳が輝く。
整った顔立ちが二人の姿を見て一瞬で凍りついた。
「娘! 団長に何をしているの、離れなさい!」
澪は反射的に身を引く。
「えっ……誰!? どこから入ってきたの!?」
声が上ずり、現実が急速に押し寄せる。
その隣で、カイはようやく我に返ったようにまぶたを閉じ、静かに息を吐いた。
ベッドの上から体を起こし、光の渦を背に立つリュシアを見上げる。
「……リュシア」
その名を呼ぶ声には、驚きよりも諦めに似た響きがあった。
光はなおもかすかに瞬き、三人の間に、緊張と沈黙が降りた。




