36.光
翌朝。
カーテンの隙間から射す冬の光が、いつもより柔らかく見えた。
澪がキッチンで朝食を作る音――トースターのカチリという小さな音さえ、やけに心地よく胸に沁みる。
カイはその音を聞きながら、リビングの窓辺で黙って外を眺めていた。
ガラス越しの空は薄い青。昨日の雪はすぐに溶け、街路樹の枝にわずかな白を残すだけ。
(……あと、二週間か)
指折り数えた日々が、もう残り十四。
この家で澪と過ごした時間は、静かで、温かくて――そして、残酷なほど短かった。
不意に、キッチンから声がする。
「カイー、パン焼けたよ! ねえ、お父さんもう起きたかな」
澪の声に、カイは我に返って笑った。
「うん、起きてたよ。さっき洗面所にいた」
エプロン姿の澪がフライパンを振るう。
その仕草ひとつで、心が満たされてしまう自分がいた。
彼女がいるだけで、世界の輪郭がやわらいでいく。
戦場のように殺伐とした帝国の景色も、今はもう、遠い昔の夢のように霞んで思い出せなかった。
(おかしいな……)
澪の笑い声が響くたび、心の奥で冷たく固まっていた何かが、少しずつ溶けていく。
痛みも孤独も、彼女の前では意味をなくしていくようで――それが、恐ろしかった。
(このまま、何も変わらずにいられたら)
けれど、夢のような日々は永遠には続かない。
百日を迎えるその刻が、静かに近づいている。
白月花は澪の魂を見つめながら、ゆっくりと答えを形にしようとしていた。
食卓にパンとスープが並び、澪が椅子に腰を下ろす。
「お父さん先に食べてるからね、ほら、カイも食べよ。いただきます」
いつもの何気ない声が、どうしてこんなにも愛おしく響くのだろう。
カイはスプーンを手に取るふりをして、そっと彼女を見つめた。
視線に気づいた澪が首をかしげる。
「なに?」
「……ううん。なんでもない」
何も言わないまま、心の中でだけ呟く。
けれど、僕はこの世界に長く留まることができない。
百日が終わるその瞬間、白月花が答えを告げるだろう。
もし君が星永の乙女であるなら――
僕は帝国へ還り、その魂をアストロリオスの贄として差し出さなければならない。
もしそうでないなら――
僕は再び流星となり、夜空を彷徨う。
次の魂を探して、君のいない空を渡り続ける。
どちらの未来に手を伸ばしても、
この世界で君と過ごせる時間は指の隙間からこぼれていく。
スープを口に運びながら、カイは静かに息をついた。
温かさが喉を通るたび、胸の奥に別の熱が灯る。
それは、魔力の奔流でも、呪いの疼きでもない。
たったひとつの、初めて知る感情。
(……澪。君が僕を、変えたんだ)
その気づきは、痛みよりも静かな光に似ていた。
星永の乙女を見出すために作られた自分が、その候補の少女に心を奪われている。
愚かだとわかっていても、もう――この想いを否定することはできなかった。
それでも、胸の奥でひとつの願いがかすかに芽を出す。
――もし叶うなら、君が運命に選ばれた存在ではなく、ただの少女であってほしい……。
その小さな祈りを、誰にも聞かせぬまま飲み込んで、カイは笑った。
***
十二月の風は、息を吐くたび白く滲む。
放課後の校門前は部活帰りの生徒で賑わい、遠くから吹き抜ける冷たい風が髪を揺らしていく。
カイは門のそばに立ち、手をポケットに突っ込んだまま昇降口を見つめていた。
胸の奥が妙に落ち着かない。
それは、最近になってようやく名を知った感情――。
だが、それを知った途端、胸の奥にもうひとつの重みが生まれた。
澪が他の誰かと話しているだけで、息が詰まるような苦しさ。
見たくもないのに、視線が離せない。
冷たい風が頬を刺す。
昇降口の扉が開き、澪が姿を現した。
その瞬間、カイの胸がわずかに跳ねる。
だがすぐに、後ろから田辺が近づくのが見えた。
二人が立ち止まり、言葉を交わしている。
澪の口元がかすかに動いた。
笑ったように見えた。――けれど、どこかぎこちない。
田辺の方も、微妙な間を残して小さく頷く。
距離のあるその光景を、カイはただ見つめていた。
胸の奥で、何かがじわりと広がる。
冷たいはずの風が、妙に熱を帯びている気がした。
(……何を話しているんだ)
(なぜ、あんな顔で――)
言葉にならない思いが、喉の奥で渦を巻いた。
今すぐ間に割り込みたかった。
その笑顔を、自分の知らない場所で浮かべてほしくなかった。
けれど、そんな自分の感情の正体を、カイはまだ理解できずにいた。
澪が田辺と別れ、こちらへ向かって歩いてくる。
カイは慌てて視線を逸らす。
「カイ」
澪が声をかける。
「待たせた? ごめん、話してたらちょっと遅くなって」
「……別に」
短く返すカイの声は、風の音に紛れてかすれた。
「じゃあ、帰ろっか」
澪はそう言って、いつものように歩き出す。
並んで歩く二人。
夕焼けに染まる通学路に、二人の影が長く伸びる。
「今日さ、琴羽たちと体育館の大掃除しててさ――」
澪はいつもの調子で話し始めた。
ちょっとしたハプニングや、ひなたのドジ話。
いつもならカイが冷静に突っ込みを入れるところだ。
けれど、今のカイはほとんど口を開かない。
ただ「へえ」とか「そう」とか、形だけの相槌。
澪が足を止めた。
「……ねえ、どうしたの? なんかあった?」
カイは前を向いたまま、短く答える。
「別に。なんでもないよ」
その声は静かすぎて、どこか遠い。
澪は一瞬だけ横顔を見つめ、それ以上は何も言わなかった。
「……そっか」
それきり、二人の間に言葉はなかった。
冷たい風の音だけが、街の隙間を抜けていく。
沈む夕陽がオレンジ色に滲み、ふたりの影が歩道の上で重なったり離れたりを繰り返していた。




