35.雪
席に戻った澪に、灯が小声で囁いた。
「私の席と代わる?」
澪は一瞬迷ったが、首を横に振る。
「……いいよ。あからさますぎるし」
そうして田辺の隣に腰を下ろした。
鉄板の上で肉が焼ける音と煙の匂いが漂う中、田辺が気を遣うように声をかけてくる。
「白川、ちゃんと食べてる?」
「うん、食べてるよ」
何気ないやり取りのあと、田辺が言葉を継いだ。
「そういえばさ……白川のいとこって、北山の彼女にちょっかい出してるんだろ?」
「え?」澪は箸を止めた。
「それって……りりあのこと?」
「そうそう。りりあちゃん、北山の彼女なのに。……ほら、今もあんなに馴れ馴れしくしてさ」
田辺の視線の先では、りりあが笑顔でカイの皿に肉を取り分けていた。
「カイはそんなことしてないよ。それ、田辺君の誤解だって」
澪はきっぱりと言った。
「そうかな……でも、女の子とっかえひっかえ遊んでるって噂もあるし。正直、ああいうの良くないよな」
澪は深く息を吐き、田辺を真っ直ぐ見つめた。
「田辺君、あのね。それは全部、噂でしょ? カイは確かに目立つ見た目だから、女の子が寄ってくるのは本当。でも、人の彼女に手を出したり、誰かをもてあそんだりなんてしない。……だから、自分の目と耳で確かめたわけでもないこと、悪意ある噂として広めちゃだめだよ」
真剣な声に、田辺は一瞬言葉を失い、「あ、ああ……」と曖昧に頷いた。
その様子を見ていた野球部の男子たちが、すかさず声を張り上げる。
「おーい! 白川と田辺、なに見つめ合ってんだよ!」
「二人だけの世界つくってんじゃねーぞ!」
わっと笑いが広がり、ソフトテニス部の子たちもざわついた。
そして、ひなたが無邪気に首をかしげる。
「え? 澪先輩って田辺先輩と付き合ってるんですか?」
「え、そうなの?」
「まさか、ほんと?」
事情を知らない一年生たちまできゃあきゃあと声をあげ、男子たちは面白がってさらに囃し立てる。
「おーい田辺、責任とれよ!」
「白川、赤くなってんぞー!」
笑いとひやかしの渦の中、澪は深いため息をつき、頭を抱えた。耐えきれずにちらりとカイを見やる。
けれど、カイは何も言わずに俯いていた。
表情は髪に隠れて見えない。黙り込む彼を見ていると、澪の胸がざわついた。
(……怒ってる? 私に、じゃないよね。でも……カイ、気づいてくれるかな)
周りの笑い声が遠くに響く中、澪はスマホを取り出した。指が迷いなく動く。
《今日のお願い。もう帰りたい》
メッセージを送った瞬間、澪はスマホを小さく振って合図した。
カイのポケットが震え、彼が画面を見たのち、すぐに隣のりりあへ身を寄せる。
「ごめん、りりあちゃん。僕、ちょっと具合が悪くなってきちゃった。先に帰るね」
りりあは目を丸くし、すぐに眉を下げる。
「えっ……大丈夫ですか? カイ先輩、帰っちゃうの寂しいです……」
「ごめんね」
カイが穏やかに微笑むと、そのやりとりを聞いていた灯がちらりと視線を上げ、すぐに察したように小さく頷いた。
それからカイはゆっくりと立ち上がり、椅子の背にかけていた荷物を手に取る。
澪の前に歩み寄り、柔らかな声で告げた。
「澪、ごめん。僕、ちょっと具合が悪くなってきちゃった。……ひとりで帰れそうにないんだ、送ってくれない?」
澪は短く息を呑む。
それは、たったいま自分が願った言葉の答えだった。
次の瞬間、カイは迷いなくその手を取った。
田辺が驚いたように立ち上がりかける。
「え、ちょっと! 何勝手なこと……」
その声を遮るように、カイが田辺へ視線を向けた。
冷たい蒼の瞳が射抜くように細められ、田辺の言葉は喉の奥で凍りつく。
そのとき。
カイの指が軽く鳴った。
――パチン、と。
刹那、賑やかな店内から音が消えた。
笑い声も、焼ける音も、人々の動きすら止まり、世界が水面の下に沈んだような静寂に包まれる。
「……っ!」
澪が思わず息を呑む。
カイは澪の耳元で、低く囁いた。
「大丈夫、少しの間だけだから。今のうちに行こう、澪」
澪の鼓動が耳に響く。
彼の温もりに手を引かれながら、止まった世界を抜け、二人だけの夜の街へと歩み出した。
***
冷えた夜風が二人の頬を撫でる。街灯に照らされた道を並んで歩きながら、澪は振り返るように口を開いた。
「……みんな、大丈夫かな?」
心配そうに眉を寄せる澪に、カイはあっさりと答える。
「平気。もうとっくに時間は普通に流れてるから。僕らがいなくても、きっと盛り上がってるよ」
その声に安堵したのも束の間、澪はうつむき、小さく続けた。
「……さっきの、田辺君とのこと。違うからね。付き合ってるとか、そういうのじゃないから」
カイは横目で澪を見やり、静かに頷いた。
「うん。分かってる。君と田辺の会話、全部聞いてたから」
「えっ……聞いてたって?」
澪が目を丸くすると、カイは唇の端を上げた。
「僕、魔法使いだからね」
からかうように笑いながらも、声はどこか優しい。
「ありがとう。僕のこと、庇ってくれてたよね」
澪は足を止めて、まっすぐに言った。
「田辺君、カイのこと誤解してた。人から聞いた悪い噂を、本当だって思って……そうやって広めるの、許せなくて」
カイは首を横に振る。
「気にしないで。そういうの、今までも何度もあったことだから」
ほんの少し眉を寄せたままカイを見つめていた。
二人が歩いていると、不意に空から白い粒が落ちてきた。
「あ……雪」
澪が顔を上げ、吐息まじりに声をもらす。
本当に降ってきたね――カイも同じように空を見上げる。
「積もるほどじゃなさそうだけど」
街灯に照らされた雪は、光をまとったままふわりふわりと舞い降りる。
暗闇に吸い込まれていくのか、それともこちらへ降りてきているのか、境目は曖昧だった。
「こうして見てると……このまま空に吸い込まれそう」
澪のつぶやきに、カイは目を細める。
「……本当だ」
雪の粒を追いながら、カイはふと口を開いた。
「僕の生まれた世界の雪にはね、ごくたまに氷の精霊が宿っていることがあるんだ」
「精霊?」
澪が驚き混じりに首を傾げる。
「そういう雪を手のひらに乗せて溶かすと、精霊が姿を現すんだ。小さい頃はよく、捕まえたくてこうして雪を受け止めてたよ」
カイは掌を広げてみせる。
「魔法だけじゃなくて、精霊まで……。カイの生まれた場所って、本当に別の空の下なんだね」
少し間を置いて、澪は小さく笑う。
「ねえ、氷の精霊って、どんな姿してるの?」
「一度だけ、見たことがある。氷でできた鳥の姿だったよ。逃げないように足を掴んだら、そのまま飛び立って……僕を森の泉に振り落として逃げていったっけ。
それから少しだけ雪が嫌いになったんだ」
その思い出を語るカイの横顔に、澪は思わず笑みを浮かべた。
カイ自身も少しおかしそうに笑っていた。
「私は雪、好きだな」
澪は空を見上げたまま、ふと呟く。
「きれいだし……それに、ちょっと美味しそうじゃない? 昔お父さんと行ったスキー場でね、その場に積もった雪をぜんぶかき氷にして食べたいって、本気で思ったことがある」
カイは思わず吹き出した。
「君の食いしん坊度合いは、スケールがでかすぎるね」
「だって、ほんとに美味しそうに見えたんだもん」
澪が頬を赤らめながら笑うと、雪片が髪に落ちてすぐに溶けた。
そんなたわいもない会話をしているうちに、胸にたまっていたもやもやが、雪の冷たさに溶かされるように澪の中から消えていった。
さっきまで重かった心が、不思議なくらい軽くなっている。
夜風に揺れる街路樹の影を踏みながら、カイは澪の横顔を盗み見た。
頬にかかる髪が街灯に照らされて淡く光り、その視線はまっすぐ空へ向けられている。
――澪のこと、好きすぎじゃない?
灯の言葉が、不意に胸の奥で反響する。
そんなはずない、と否定しかけて、言葉にならないまま喉の奥で消えた。
繋がれたままの手のぬくもりが、やけに鮮明に意識に残る。
鼓動がほんの少し速くなるのを感じながら、カイは夜空を仰いだ。
(……無自覚、ね)
吐く息が白く溶けていく。
澪の隣を歩くこの時間が、なぜこんなにも心地いいのか――その答えを、まだ自分の中で掴めずにいた。
そんなカイの視線に気づいたのか、澪はふと笑みを浮かべ、雪に包まれた空を指差した。
「ねえ、上から見たら、どんな景色なんだろうね。
……この雪が、空から降りてくる瞬間って、どんな世界なんだろ」
息を白く吐きながら、少し笑って続ける。
「地上にいると、ただ冷たくて、儚くて……でも、あっち側からなら、きっともっと綺麗に見えるのかな」
その無邪気な言葉に、カイは少しだけ考えてから小さく口角を上げる。
「……じゃあ、見せてあげようか」
「え?」
澪が問い返すより早く、カイは指先を弾いた。
ふっと体が浮かぶ。
「きゃっ……!」
澪が悲鳴をあげ、慌ててカイにしがみついた。
気づけば二人は雪空の中に漂っていた。
足元には、街灯や車の明かりが無数の宝石のようにきらめき、舞い降りる雪片がその光を反射して夜空全体を揺らめかせていた。
「すごい……」
澪の瞳が見開かれる。けれど次の瞬間、恐怖に体を強ばらせ、カイの胸に顔を押しつけるようにしがみついた。
「た、高い……! 無理、落ちたらどうすんの……!」
声が震えて、肩に思わず力がこもる。
けれど次の瞬間、そっと顔を上げて、カイの胸越しに光の粒を見つめる。
「……でも、きれい。怖いのに、目が離せない」
その声に、カイは思わず笑みをこぼし
「僕がいるのに、怖いの?」
そういって腕の中の澪をぎゅっと抱きしめ返した。
その体から伝わる鼓動と、自分の心臓の音が重なって耳の奥に響く。
「……だって、空だよ」
澪はかすかに笑って、言葉を探すように続けた。
「高いところ、苦手だって言ったのに」
そう言いながらも、腕の力を少しだけゆるめる。
冷たい雪が澪の髪や肩に舞い落ちては溶ける。
その一瞬一瞬さえも愛おしいと思えてしまうほどに――カイの胸の奥は熱く、締めつけられた。
(ああ……そうか)
カイは静かに息を呑んだ。
胸の奥で、何かが音もなくほどけていく。
その感覚の名を、ようやく理解した気がした。
(僕は、君が――)
心の中で形になりかけた言葉を、カイはそっと飲み込む。
吐く息が白く溶けていった。
夜空はまだ、降りしきる光で満ちている。




