34.戸惑い
気がつけば時計の針は午後五時を回っていた。
窓の外は藍色に沈み、冬の夕暮れがじわじわと夜へ移ろっていく。
「カイ、準備できた? そろそろ行こうか」
スマホを片手に澪がドアをノックする。
「はいはい、今行くよ」
返事をして扉を開けた瞬間、カイの足が止まった。
白いニットにネイビーのダッフルコート。グレンチェックのプリーツスカートに黒タイツ。
いつもはジャージやパンツ姿ばかりの澪が、そこにいた。
半年前は少年のように軽やかなショートだった髪は、今では顎のラインを柔らかくなぞり、片側へ流れる前髪がどこか大人びた影を作っている。
見慣れたはずの横顔が、ふいに知らない誰かのように映り、カイは思わず視線を逸らした。
そんな様子には気づかず、澪は得意げに笑みを浮かべる。
「どう? これなら私服でも男の子に間違われないでしょ?」
カイはわざと視線を戻さず、コートを羽織って部屋を出る。
「足、出しすぎじゃない? 雪、降るかもって言ってたのに。冷えるよ」
少しぶっきらぼうな言い方に、澪は自分の足元を見下ろしてむっとする。
「制服のスカートとそんなに変わらないけど」
抗議も軽く受け流すように、カイはそのまま階段を下りていった。
彼の耳が赤く染まっていることに、澪は最後まで気づかなかった。
***
二人は街灯の明かりが点り始めた通りを並んで歩いていた。
夜の気配がぐっと近づき、冷えた風が頬をかすめるたびに、澪は思わず両手で鼻を覆った。
「風つめたっ……マフラーしてくればよかった」
そんな時、澪のスマホが軽い通知音を響かせる。画面をのぞいた澪が小さく息をのんだ。
「あ、灯からだ……え、うそ。そうなの?」
「澪?」
首をかしげるカイに、澪は眉を寄せて答える。
「今、お店に着いた灯から連絡あって……今日の打ち上げ、野球部と合同になったみたい」
「へえ、そうなんだ」
カイは相槌を打ちながらも、澪の表情に違和感を覚える。
「野球部と一緒だと嫌なの?」
「別に嫌じゃないけど……まあいいや、寒いし早く行こ」
澪は話を切るように、足を速めた。
***
店に入ると、すでにほとんどのメンバーが揃っていた。炭火の匂いが漂う店内は、若者たちの笑い声で賑わっている。
「遅れてごめん!」と澪が声をかけると、すぐにりりあが手を振った。
「澪先輩、カイ先輩! 席こっちですー!」
視線を向ければ、ひなたや杏、優理に、灯、詩音、琴羽といったソフトテニス部の面々が席に並んでいた。奥のテーブルには野球部の男子たち。引退した三年生も顔を揃えていて、りりあの彼氏・北山の姿、そして澪と同じクラスの田辺もいる。
空いている席にそれぞれ腰を下ろすと、りりあが元気いっぱいに立ち上がった。
「はい! 全員揃ったので、ソフトテニス部と野球部の合同打ち上げを始めたいと思います!」
拍手と笑い声が弾け、乾杯の声が重なる。鉄板の上では次々と肉が焼かれ、煙とタレの香りが食欲をそそった。
カイはひなたと優理に挟まれ、あれこれ質問攻めにあっている。澪は灯と杏の隣で、大会で個人戦ベスト八に残った杏を褒め立てていた。
「杏、ベスト八おめでとう! すごいじゃん! さすがだなー」
「やめてよ先輩、恥ずかしいから!」
笑いが弾ける。
その時、野球部の三年生が声を張った。
「せっかく今日は合同なんだしさ、席替えしようぜ!」
「合コンかよ……」と灯がため息をつく。
けれど、野球部が持ち込んだくじ引きに、誰ひとり反対の声を上げなかった。賑やかな空気に押されるように、一人ずつクジを引いていく。
カイが引いたのは、りりあと灯の隣だった。
「カイ先輩が隣、やったー!」
りりあの声がひときわ高く響く。その瞬間、北山の鋭い視線がちらりと飛んできた。
次は澪の番。手を伸ばしながらも、どこか乗り気でない様子をカイは見ていた。
引き当てたクジには――田辺の隣、と書かれていた。
「……はあ」
小さくため息をつき、澪は席を移動する。
「隣だな」
田辺が少し照れたように笑う。手元のグラスをやたらと持ち替えていて、落ち着かない様子だ。
「うん、よろしく」
澪は笑って返すが、箸の先で空の皿をつつきながら一瞬だけ目を伏せた。
「白川の私服って、初めて見た。その……かわいいね」
ふいに田辺に言われて、澪が苦笑いをする。
「え? あ、ありがとう」
「……なんかさ、偶然隣りどうしになるのって……ちょっと運命っぽくない?」
冗談めかした口ぶりに、澪の笑みが一瞬固まる。
「え? ……なにそれ。ただのクジでしょ」
明るく言い返しながらも、声の端にわずかなぎこちなさが混じる。
「でも、こういうのがきっかけになったりするんじゃないかな」
田辺の視線がまっすぐで、澪はグラスの水をひと口飲んでから、わざと軽い調子で言葉を返した。
「……じゃあ、そのきっかけでいっぱい食べなきゃね。焼肉、冷めちゃうよ」
無理に明るさを作った笑みに、田辺も「そっか」と笑い返す。
けれど、その目の奥にはまだ何かを期待している色が残っていた。
鉄板の上で肉がじゅうじゅうと音を立てる。煙の香ばしさに笑い声が混じり、店内はすっかりお祭り騒ぎだった。
けれど、澪は箸を動かしながらも、どこか視線が泳いでいる。隣の田辺がやたらと気を配って声をかけてくるのに、笑顔で返しながらも表情が硬い。
その様子を、カイは無言で横目に見ていた。
「カイ先輩、これ焼けてますよ」
りりあが、皿に肉をのせて差し出してくる。サラダまで取り分けて、まるで給仕みたいだ。
「ありがとう、りりあちゃん」
にこりと笑ったカイに、りりあは頬を染めて「いえいえっ」と箸を揺らす。
その瞬間、前の席から北山の鋭い視線が飛んできたが、りりあはまるで気づかないふりをして肉を裏返した。
「カイ君、将来なにになりたいとかあるの?」
灯が氷を小さく鳴らせながらグラスを傾け問いかけた。
「将来? さあ? 特に考えてないけど」
カイは肩をすくめて笑う。
「へえ、意外。夢とかないの?」
少し間を置き、カイは声を潜めるように答えた。
「……夢、ね。最近は――ただ、澪とずっと一緒にいられたらいいなって思うくらいかな」
灯の手が止まる。グラスの縁から滴った水が指先を濡らすのも忘れ、視線がカイに向く。
「……なにそれ」
「え?」
灯は小さく吹き出し、わざと軽い調子で囁く。
「カイ君ってさ、澪のこと好きすぎじゃない?」
「は?」
カイが眉をひそめる。
「え、“は?”って……ひょっとして無自覚なの?」
灯はくすくす笑い、グラスの氷を転がした。その笑みの奥に、ほんのわずかな探るような光が宿っていた。
そんなやりとりの最中、野球部のテーブルからひときわ大きな声があがった。
「なーなー! せっかくの合同だしさ、ゲームしようぜ!」
「お、きたな! なにするんだ?」
「決まってんだろ、王様ゲーム!」
拍手や口笛が飛び交い、勢いに押されるようにクジが再び回される。
「王様だーれだ!」
野球部の男子が声を張り上げると、店内の空気はさらに熱を帯びた。
最初は他愛もないお題ばかりだった。
「はい、王様の命令! ○番はモノマネ披露!」
「○番は中学時代の黒歴史を告白~!」
指名された誰かが照れながら立ち上がり、真似をしたり昔の恥ずかしい話を暴露したりするたびに、テーブルがどっと沸く。
澪も肩を震わせて笑っていた。
だが、ゲームが何巡目かに入ったときだった。
「王様は俺だな」
札を掲げたのは、野球部の三年生。ニヤリと笑い、場を見渡す。
「じゃあ――田辺!」
唐突に名を呼ばれた田辺がびくりと顔を上げる。
「お、おれ?」
「そう、お前だ。命令はな……“好きな子の名前をみんなの前で言え!”」
どっと盛り上がる野球部。
「おー!」「いいぞいいぞ!」
無邪気な歓声が飛び交う中、澪の笑顔がすっと引きつった。
箸を握る指先に、力がこもる。
「ちょっと、それは……」
灯が小さく眉をひそめてつぶやく。
けれど場の勢いは止まらない。みんなが田辺を見つめる。
田辺は顔を赤くし、視線を泳がせながらも、ちらりと澪の方を見た。
――その瞬間、カイの胸に不快な熱が広がった。
賑やかな笑い声の中で、自分だけが別の場所に立たされているような居心地の悪さを覚えながら、彼は澪の横顔をじっと見つめていた。
田辺が口を開きかけた、その瞬間だった。
――ガタン、と乾いた音を立てて、灯がわざとグラスを倒した。
「ごめん、ごめん! 手が滑った」
テーブルにドリンクが広がり、周りがざわつく。灯は笑いながら澪に目配せを送った。
澪はハッとして立ち上がる。
「お店の人に布巾、もらってくる!」
そう言って席を離れると、灯はさりげなくカイに顔を寄せ、低い声でささやいた。
「ちょっと澪のとこ行ってくるから、ここお願いね」
田辺は澪がいなくなったことで言葉を濁し、場の笑いに紛れてその命令はうやむやになった。
***
店の外。夜風に頬を冷やされながら、澪は胸を押さえて大きく息を吐いた。
すぐ後ろから追ってきた灯が声をかける。
「大丈夫、澪?」
「……うん。焦ったわー」
力の抜けた笑顔に、灯は目を細める。
「あいつら、絶対わざとだよね」
「だよね。……野球部と合同になったって聞いたときから、嫌な予感してた」
澪の吐息が、白く夜に溶けていく。
――数日前。
田辺からのメッセージが、澪の胸をいまもざわつかせていた。
『おれ、白川のことが好きだ。付き合ってほしい』
予想もしていなかった言葉に、指先が震えた。クラスメイトとしてしか見ていなかった相手からの突然の告白。
澪は迷った末、こう返した。
『ありがとう。でもごめん。今は受験のことで頭がいっぱいで、そういうこと考えられない』
田辺からも『わかった、ごめん』と返ってきて、それで終わったはずだった。
けれど翌日、彼は人目もはばからず言ったのだ。
『やっぱり白川のこと、あきらめきれない。受験が終わったらもう一度答えてほしい。俺、それまで待つから』
そう言い残して走り去った田辺。
その日から、クラスの男子たちが二人を冷やかすように外堀を固め始めた。わざと二人きりになる場面をつくり、授業でもペアを仕向け……。
元々はっきり物を言う澪ですら、こういう空気には慣れておらず、どう対処すればいいかわからなかった。だから、灯にだけ相談していたのだ。
「……野球部のやつら、澪と田辺をくっつけるために幹事のりりあに頼んだんだと思うよ。本当くだらないことするよね」
灯の言葉は、冷たい夜気よりも鋭く突き刺さった。
澪はぎゅっと手を握りしめる。
「せっかくの打ち上げなのに……純粋に後輩たちの健闘を祝いたかっただけなのに」
苦笑に混じる声が、ほんの少し震えていた。
「……もう帰ろうかな」
夜の街灯が二人を照らし、遠くからはまだ店内の笑い声がかすかに聞こえていた。




