31.初めての感情
翌日、澪は体調を崩すこともなく、ふたたび学校へ向かった。
久しぶりに登校したカイは、相変わらず女子たちに囲まれているようだった。
廊下からそんな様子を横目に見ながら、澪は日常が戻ってきたような妙な安堵を覚え、ふっと笑った。
何事もなく一日の授業が終わり、放課後は委員会の話し合いへ。
季節行事に向けての議題はなかなかまとまらず、気づけば外はすっかり夕暮れに沈んでいた。
昇降口を出ると、夕暮れの風が頬をなでた。
澪はリュックの肩紐を持ち直し、伸びをひとつ。委員会で遅くなったせいで、校庭にはもう誰の声も響いていない。
「……白川?」
声に振り返ると、同じクラスの田辺が階段の下に立っていた。野球部で日焼けした面影はそのままに、少し髪が伸びて見慣れない感じだ。
「田辺君? なんでこんな時間まで?」
「白川は委員会?」
「うん、意見まとまらなくてこんな時間まで」
「そうか、俺は野球部に顔出してたんだ。久々にグラウンドで声出したら、喉やられそうになった」
「ははっ。引退したのに無理しすぎ」
他愛ない笑いがこぼれ、二人で並んで歩き出す。
「受験勉強すすんでる? 俺、体育系の大学狙ってんだ」
「そうなんだ。らしいね、田辺君っぽい」
「白川は?」
「K大学のスポーツ科学科。受けようと思ってる」
「おお、すげえ。あそこ結構競争率高いよな」
空は淡い光を手放し、群青へと溶けていく。冷えはじめた空気の中、靴音だけが静かな道に澄んで響いていた。
ふいに、田辺が切り出した。
「……白川ってさ、つきあってるやつとか、いる?」
「えっ」
思わず立ち止まり、目を瞬かせる。
「いないけど……なんで急に?」
「いや、なんとなく」
彼はどこか照れくさそうに笑い、それでも安心したように息を吐いた。
「そっか。じゃあさ、俺と連絡先交換とか……嫌かな」
断る理由も見つからず、澪はスマホを取り出した。
「別に、いいけど」
「マジで? やった」
画面に表示された名前が、沈みかけた夕陽の残光にかすかに浮かび上がった。
その様子を、校門の影からじっと見つめている瞳があった。
白銀の髪を風に揺らしながら、カイは無表情を装って立っている。
けれど胸の奥で、かすかなさざ波のような感情が揺れた。
言葉にならない違和感が、喉の奥にからみつく。
やがて、澪と田辺が並んで門を出てくるのが見えた。
「あれ……カイ?」
澪は目を丸くして歩みを速めた。
「待ってたの? 朝、今日は委員会あるから先に帰ってって言ったじゃん」
「そうだっけ?」
肩をすくめ、何でもない風に答える。
そのやり取りに、田辺は一瞬だけ気まずそうに視線を泳がせた。
「……じゃあ、また明日」
軽く手を上げ、足早に去っていく。靴音が遠ざかるにつれ、夕暮れの静けさが戻ってきた。
門を出ると、並木道の影が長く伸びていた。
冷たい風が枝を揺らし、はらはらと落ち葉が舞う。足元で枯葉の乾いた音が響いた。
「さむっ……」
澪が肩をすくめる。吐いた息が白く揺れた。
「カイ、寒くないの?」
隣を歩くカイは、冬服のブレザー姿だけで、上着もマフラーもなく薄着に見えた。
「寒いよ」
あっさり返され、澪は思わず笑う。
「寒いなら上着羽織ったりとか、マフラーとかしなよ。そんな顔してるから、寒さにめちゃくちゃ強いのかと思った」
そう言って、自分のマフラーを外し、ぐるぐるとカイの首に巻きつける。
柔らかな布地が触れた瞬間、カイはわずかにまばたきをした。
「ほら、とりあえず明日はお父さんの上着でも借りなよ」
澪の笑顔とマフラーの温もりに、カイはふと立ち止まり、短く言った。
「……あったかいね」
風に揺れる街灯が、二人の影を路面に長く落とす。
「カイの世界って、季節とかあるの?」
「あるけど……夏はこの世界ほど暑くないし、冬もこんなに寒くないかな」
「へえ、過ごしやすそうなとこだね」
澪の無邪気な声に、カイはふっと目を伏せた。
吐き出すように漏れた言葉は、風にさらわれて澪の耳には届かない。
「……ここは不思議だよね。深く息をしても、胸が苦しくならない」
澪は気づかずに足を速め、落ち葉を踏む音を立てながら話を続けた。
「まだ十一月だからそこまでじゃないけど、これからどんどん寒くなるよ。今週コート買いに行こうか。年末はさすがにコートないときつい……」
そこで、ふと言葉が止まる。
「あ……でも、カイはその頃はもう、この世界にいないかもしれないんだよね」
複雑な影が横顔に浮かぶ。カイは気づかないふりをして、ただ「そうだね」と応えた。
「このままいけば、カイの呪いが解けるのっていつ?」
「……十二月の終わり。……そうだね、二十四日でちょうど百日になるよ」
澪は足を止めかけ、ほんの一瞬だけ息をのんだ。
冷たい風に前髪が揺れ、目を細めながらカイを見上げる。
それから、ふっと口元を緩めて――
「クリスマスか。じゃあ、カイの呪いが解ければ、最高のクリスマスプレゼントになるね」
澪はにかっと笑い、吐く息で白い雲を作った。
「……そう、なるのかな」
カイは視線をそらし、曖昧に笑った。
「もし失敗したら、また流星になって夜空を彷徨うの?」
澪の問いに、カイは薄暗くなった空を仰ぐ。
「そう。呪いが解けなければ、僕はまたあの空の上だ」
――いったい、どれほどの時をあの空で彷徨ったのだろう。
何度も願いをかけられて地に降り立ったけれど、今までの娘たちはひと月と経たずに禁忌の願いを口にし、白月花を枯らしていった。
“星永の乙女”を見つけるまで終わらない。それこそが、僕の呪いなのかもしれない。
けれど、もし澪がこのまま花を枯らさずに、この百日間を終えたとしたら――。
胸の奥に、言葉にできない重さがじわりと落ちた。
「じゃあさ」
澪の声が、思考を引き戻す。
「もしまた、カイが流星になっちゃっても、私がもう一回願いかけて呼び戻すよ。そしたらまた、呪いを解くための百日間を一緒にやり直せばいいんじゃない?」
笑う澪の顔は、夜空には存在しない太陽のようだった。
――まただ。
彼女を見ていると、今まで感じたことのない温かさが胸に満ちてくる。
冷たい風が並木を揺らし、枝の間からこぼれる街灯の光がちらついた。
澪は肩をすくめて、息を白く吐く。
「うー、風が吹くとよけいに寒いね。陽も落ちてきたし、急いで帰ろ」
リュックを揺らして歩き出す背中。
落ち葉が風に追われるように舞い上がり、静けさのなかで靴音だけが響く。
カイは、その場に立ち尽くしていた。
君は笑っている。僕は立ち止まっている。それだけのことなのに、どうして胸がざわつくんだろう。
君の声を聞くだけで、静かな水面に石を投げられたみたいに波が広がる。
これは、また別の“呪いの兆し”なのか。それとも――僕がまだ知らない、何かなのか?




