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30.手

  翌日は父の言う通り、学校を休んだ。


 朝目が覚めても体の芯にまだ冷えが残っているようで、毛布にくるまったまま二度寝してしまう。夢とうつつを行き来しながら、何度も誰かの気配を感じた気がした。

 次に目を覚ましたときには、もう昼を過ぎていた。リビングのテーブルには父のメモと、手をつけられていない朝食が二人分並んでいる。


 冷蔵庫からお茶を取り出して一気に飲み干すと、まだ頭がぼんやりしていた。カーテンを開けると外は思いのほか晴れていて、どこかほっとする。


「よく眠れた?」

 背後から声をかけられ、振り向くとカイがキッチンに入っていく。コップに水を注ぐ音だけが静かに響いた。


「カイも今まで寝てたの?」

 のろのろとキッチンに歩いていくと、彼は肩をすくめて笑った。

「ちゃんと朝から起きてるよ」


 よく見ると、カイはすでにグレーのパーカーと黒のジョガーパンツに着替えている。自分がまだパジャマのままなのに気づき、澪は少しだけバツの悪い気持ちになる。


「寝すぎて頭がぼーっとするから、もうちょっとゴロゴロしてくる」

「うん、寝られるときに寝ておきなよ。……でも、頭がぼーっとって、熱とかじゃないよね?」


 カイはそう言って、澪の額に手を当てた。

「つめたっ!」

 思わず身を引く。カイの手は氷みたいに冷たかった。


「熱はないみたいだね。よかった」

 安心したように言う彼に、澪は眉をひそめる。

「カイの手、冷たすぎ! 目が覚めたわ。なんでこんなに冷たいの? 外行ってた?」


 澪はカイの手を両手で包み込んだ。

「ほんとに冷たい……昨日の川より冷たいんじゃない? 体冷やしたらダメだよ」

 にぎにぎと握りながら、子どもみたいに心配する。


 カイは冗談めかして

 「……そんなに握られると、照れるんだけど」

 と笑った。けれど蒼い瞳は、ほんの一瞬だけ逸らされていた。


「なにそれ。自分からおでこ触ってきたくせに、手を触られて照れるとか意味わかんない」

 澪はぷっと吹き出し、逆に力を込めて握りしめる。


 その温もりが、指先から胸の奥へじわりと広がっていく。

 ――おかしいな。

 彼女に触れられると、胸の奥が妙にざわつく。

 無邪気に笑う顔が近すぎて、思わず視線を逸らした。


 「……もうちょっと休んでくる」

 そう言って澪は立ち上がり、自室へ戻って布団に潜り込むと、すぐに深い眠りに落ちていった。


 

 ***



 

 次に目を覚ましたときには、窓の外はすでに夕焼けに染まっていた。

 指先に、昼間握っていた手の冷たさと、その奥にあった温もりが――まだ残っている気がした。

 

 ちょうどその頃、玄関のドアが開き、父が仕事から戻ってくる。


「……おお、二人とも元気そうだな」

 居間に顔を出した澪に、父は安堵の色を浮かべて言った。

「もう体はなんともなさそうだな。よかった……」


 その声に澪は「大丈夫だよ」と笑い、父も肩の力を抜いたように息をついた。

 


 夕飯のあと、ベッドに戻った澪の部屋にカイが顔をのぞかせる。

「ねえ、澪。……今日のお願い、何にする?」

 いつもの調子で軽く問いかける。


 澪は枕に頬を押しつけたまま、少しだけ考えるように目を細めた。


「今日一日ずっと寝てたからさ、全然眠くならないんだ。だから……眠らせて」

「またそれ?」

 カイは半ば呆れたように笑った。


「……もうひとつ、お願いしていい?」

「うん?」


 一拍の沈黙。澪は視線を落とし、毛布の端を指先でいじる。

 やがて、迷うことなく彼の手を取った。


「……カイの手、もう一回、握らせて」


 そのままぎゅっと包み込み、目を細める。

「やっぱり冷たいね。でも……冷たくて、気持ちいい」


 握ったまま少しずつ瞼が重くなっていく。

「……なんか安心する……」


 そのまま、すうっと寝息に変わった。


 カイは取り残されたように動けなかった。

 指先に残る澪の温もりが、どうしようもなく胸を締めつける。



 ……魔法をかけたわけじゃない。なのに……僕の手を握っただけで、安心して眠った?


 胸の奥で何かが弾けるような感覚があった。

 彼女にとって、僕は“安心できる存在”だということ?

 そんなはずはない。僕は戦場で血と死を振りまき、怪物として恐れられる存在なのに。


 それなのに……どうして。どうして君は、こんなにも簡単に僕を受け入れるの?



 喉の奥が熱を持ち、視線を逸らしても澪の寝顔が焼きついて離れなかった。

 胸のざわめきはもう違和感ではなく、確かな痛みのように広がっていく。


 こんな気持ちになるなんて……

 


 カイは握られた手をそっと解くこともできずに、ただじっとその寝息を聞き続けていた。

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