28.再会
十一月の街は、吐く息が白くなりはじめ、冬を隠しきれなくなっていた。
進路相談で遅くなった帰り道。校門を出ると、空はすでに深い藍に沈み、夜気が頬を刺した。
制服のポケットに手を突っ込みながら歩く澪は、吹き抜ける風に思わず肩をすくめる。
(……もう、冬なんだ)
夏の終わりに戻ってくると信じていた人影は、今も現れない。
並んで歩くはずの隣は、相変わらずぽっかりと空いたままだ。
他の家々から漏れるあたたかな灯りが、逆に心を締めつけた。
その時、
――ばしゃん、と水を打つ音。
次の瞬間、不意に耳に届いた子どもたちの叫び声。
「大丈夫!? 誰か、誰か助けて!」
橋の上で、小学生たちが集まってざわついている。遊びの声ではない。切迫した響きに、澪の足が思わず速まった。
「どうしたの!?」
駆け寄って問いかけると、そのうちの一人が涙声で答える。
「友達が……風に飛んだ帽子を、拾おうとして川に落ちた!」
澪は川を覗き込む。
黄昏時の流れに目を凝らすと、凍える水に飲まれそうになりながら、男の子が岩に必死にしがみついていた。
川幅は広いが、水量は多くない。流れもそこまで速くはない。――それでも子どもにとっては命取りだ。
澪は振り返り、橋の上の子どもたちに声を張る。
「あなたたちは、すぐに大人を呼んできて! できるだけ早く!」
そう言い残し、自らは川辺の斜面を駆け降りていく。
岩場まではそう遠くない。膝まで冷たい水に浸かりながらも、足を止めなかった。
近づくと、少年は震えながら岩にしがみついている。
「大丈夫、もうすぐ助けが来るから。絶対に手を離さないで!」
声をかける澪に、男の子は涙で濡れた顔を振り上げて叫ぶ。
「助けて!! 助けてー!」
澪は胸の奥で自分に言い聞かせた。冷静になれ。ここから先は水深も深く、流れも速い。無理に近づけば自分まで危険だ――。
だからこそ、救助を待つしかない。
「頑張って! あと少しだけ耐えて!」
必死に声を張り上げた。
だが、震える指が岩から滑りかけるのが見えた瞬間、血の気が引いた。
(もし手を離したら……暗い川に流されて、もう見つからない……!)
心臓が跳ね、迷いが消える。
次の瞬間には、上着と荷物を脱ぎ捨て、靴のまま石の上を飛び移っていた。
足を踏み出すたびに、下から押し寄せる水流の轟きが全身に響く。
暗闇の中、渦を巻く川面が不気味に光り、ひとつでも足を滑らせれば流れに呑まれる――その危うさが肌を粟立たせた。
それでも足を止めず、男の子がつかまっている岩場まで来ると、手を伸ばし震える小さな手を力強く握りしめた。
「よし……もう大丈夫!」
「うわああーーーーん」
ぐっと引き寄せた瞬間、男の子が声をあげて澪にしがみつく。
その重みに体勢を崩し、次の瞬間、冷たい水が全身を呑み込んだ。
「大丈夫! 上に行って!」
必死に子どもを岩の上へ押し上げる。
「救助が来るまで、絶対に動かないで!」
涙に濡れた顔で頷く小さな姿を確認し、澪は胸をなで下ろした。
だが岩場に自分の居場所は残っていない。指先で縁にしがみつきながら、水の冷たさに震えるしかなかった。
流れる時間が永遠のように遅い。体の芯まで冷え、指の感覚が少しずつ消えていく。
その時、遠くでサイレンの音が響いた。
懐中電灯の光が川面を照らし、救助の声が飛び交う。
(……助かった……!)
安堵した瞬間、力が抜けた。
「あっ……!」
指が岩から離れ、澪の体は闇へと呑まれていく。
冷たい水が一気に口と鼻をふさぎ、息が詰まった。
必死に腕を伸ばしても空を切るだけで、足は流れにさらわれる。
重たい制服が身体にまとわりつき、もがけばもがくほど沈んでいく。
(いやだ、ここで……!)
肺が焼けつくように苦しくなり、視界が暗く狭まっていく。
――その時。
冷たい水の圧力から解き放たれ、身体が一気に引き上げられる。
不意に、温もりが澪を抱きとめた。
驚いて目を開くと、宙に浮かぶ自分の身体。
蒼い光に包まれ、濡れた制服ごと抱きしめられている。
「……君は、本当、無茶しすぎ。僕がいなかったらどうなってたか、分かってるの?」
寒さをほどくように、あたたかく届いた声。
見上げれば、月明かりに濡れる白銀の髪。
蒼い瞳が、闇の中で確かに澪を映していた。あの日と変わらぬ光を湛えて。
夢かと思うほどに現実味がなくて、唇が勝手に動いた。
「……カイ」
こぼれた声は、震えと笑みがまじって揺れる。
カイは片眉を上げ、ふっと笑った。
「ん? 澪……もしかして泣いてる? 怖かった? それとも、そんなに僕に会いたかったの?」
「ちがっ……水で濡れてるだけだよ!」
反射的に言い返したけれど、頬を伝う滴は自分でも区別がつかない。
悔しさと寒さで肩を震わせながら、澪はしぼり出すように言った。
「……てか、私……高いとこ苦手って言ったじゃん……心臓止まるかと思ったし……」
強がるような澪の言葉に、カイはまた小さく笑う。
「知ってるよ。……でも川の中よりマシでしょ?」
冷たい水の音に包まれながら、ふたりの温度だけが確かにそこにあった。
その時、懐中電灯の光が川面を走り、すぐ下で消防隊員の声が飛んだ。
「こっちだ! 子どもは確保したぞ!」
男の子が川辺に引き上げられた瞬間、泣き叫んだ。
「僕を助けてくれたお姉ちゃんが……川に流されちゃった!」
消防隊員たちが一斉に顔をこわばらせる。
「誰か流されたのか!? ライトを回せ!」
騒然とする声が夜の川辺に広がった。
そのざわめきの中。
ふっと光がほどけ、徐々に人々の視線の先に澪の姿が浮かび上がった。
濡れた制服のまま、川辺に立つ澪。その隣には、同じように水に濡れた白銀の髪の少年。
懐中電灯の光が二人をかすめ、人々のざわめきが一瞬止む。
澪はカイに体を支えられながら、ふらつく足で、救助に駆けつけた消防隊員へ歩み寄った。
「あの……私も……今、彼に助けられて……」
肩で息をしながら言った澪に、子どもたちと大人たちの顔が一気に緩む。
「よかった……!」
胸をなで下ろす声があちこちから上がり、泣いていた男の子も安堵のあまりしゃくりあげる。
隊員のひとりが「大丈夫か」と駆け寄り、澪に毛布を掛けてくれる。
その騒ぎの中心で、カイは何事もなかったかのように片眉を上げ、澪の横顔にだけ小さな笑みを浮かべる。
澪は震える唇をかすかに動かす。
「……ありがと、カイ」
その声は誰にも聞こえないほど小さかったが、彼は確かに受け取ったように目を細めた。
その後、澪の父も呼ばれ、カイと澪は念のため病院で診察を受けた。
軽い低体温と打撲程度で済んだのは幸運だった。
あの男の子も少し低体温になっていたが命に別状はなく、両親から深く感謝された。




