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25.君のいない日常

 スマホのアラームにせかされるように、澪はようやく目を開けた。

「今日から夏休みか……もう少し寝てたい……」

 布団の中でまどろみながら、画面をスワイプしてアラームを止める。


 その瞬間、カレンダーに書き込んだ文字が目に入った。

(……あ、今日。カイとオープンキャンパスに行く日だ)


 はっと思い出して、慌ててベッドから起き上がる。

「自分が誘っておいて寝坊はまずいよね」

 つぶやきながら洗面所へ行き、顔をばしゃばしゃと洗う。制服に着替えると、心なしか気が引き締まった。


 リビングに降りると、カイの姿はどこにもなかった。

「お父さん、カイまだ起きてない?」

 三人分のパンをトースターに並べ、スイッチを押しながら何気なく尋ねる。


 新聞を広げていた父が顔を上げ、くすりと笑った。

「何言ってるんだ。カイなら昨日、海外の両親のところに戻っただろう」


 冷蔵庫の取っ手にかけた手が止まる。

「……え?」

 

「ははは、まだ寝ぼけてるのか? 学校から帰ったあと、一緒に空港まで送っていったじゃないか」


 空港? そんなこと、してない。昨日は――。

 胸の奥に冷たいものが走り、澪は言葉を飲み込んだ。


(お父さんの記憶……変えられてる? これって……カイの魔法?)


 父が怪訝そうに眉を寄せる。

 澪はとっさに笑顔をつくった。


「そ、そうだったね。私、まだ寝ぼけてるみたい」

 軽くごまかして、急いで二階へ戻る。


 カイの部屋のドアをそっと開ける。

 机の上に積まれたままの本。ベッドに放り出された鞄。昨日まで確かにここにいた痕跡がそのまま残っている。

 その光景に、澪の肩から少しだけ力が抜けた。


(……どこかに消えたわけじゃない。きっとまた、前みたいに人助けでもしに行っただけ……)

 そう思い込もうとしたその時、記憶の底からあの夜がよみがえる。


 ボロボロの身体で帰ってきたカイ。腕に刻まれた深い傷。

『僕は、自分の怪我を治すことはできないんだ』

 そう言ったときの、見たこともない顔。


 胸がちくりと痛んで、澪は小さくつぶやいた。

「……何かあるなら、一言くらい言ってけばいいのに。どうして、自分のこと、何にも話してくれないの」




 ***




 家を出て電車に揺られながらも、澪の胸の奥にはまだ重たいものが残っていた。

 けれど、大学の門をくぐった瞬間、その空気に自然と心が少し軽くなる。


 広々としたキャンパス。立ち並ぶ建物の大きさに圧倒されて、思わず声を上げそうになった。

「……すごい」

 

 案内してくれる先輩のあとについて歩くと、最新のトレーニング機器や、研究用のモーションカメラが並ぶ部屋に通された。


「ここがスポーツ科学の実習室です」


 説明を聞いた瞬間、澪の目が自然と輝いた。

 走る姿勢を数値化してグラフにしたり、体の動きをセンサーで読み取ったり。

 知らなかった世界が、目の前にぱっと広がっていく。


(……こんなふうに調べられるんだ。全然知らなかった)


 心の中でそうつぶやいて、胸がじんわり熱くなる。

 体験授業の席に着くと、隣に座った女子高生が小声で話しかけてきた。

「この授業、けっこう面白いね」

 澪も思わず笑顔でうなずいた。

「そうだね。大学の授業って新鮮で面白いね」


 未来がそこに広がっている気がして、胸がじんわり熱くなる。

(……私も、ここで勉強できるようになるのかな)

 そんな想像をするだけで、自然と背筋が伸びた。


 でも、ふと――。

 キャンパスの大きな窓から見えた空に目を奪われる。


 雲ひとつない青。

 隣に並んで「僕には退屈だけど、君は楽しそうだね」って笑っているはずだった横顔が、そこにはない。

(……同じ空を、見てるのかな。カイも)


 次のプログラムの呼びかけに顔を上げ、再び笑顔をつくる。

 未来を描こうとする自分と、いなくなった誰かを探してしまう自分。

 その両方を抱えたまま、澪はキャンパスを歩き続けた。




 ***




 夏休みが終わり、秋風が吹きはじめても、カイは戻ってこなかった。

 時間だけが過ぎていく。澪は受験勉強と学校生活に追われながらも、心のどこかにぽっかりと空いた隙間を抱えたままだった。


 放課後の部室。新人戦大会を目前にして、後輩たちの声が弾んでいた。


「カイ先輩、いつ帰ってくるんですかー?」

 ひなたがラケットを抱えながら、当然のように聞いてきた。

 その隣で、りりあもこくこくと頷く。

「海行った時に、夏休み終わったら帰ってくるって言ってましたよね、澪先輩」


 澪は一瞬、答えに詰まり、笑顔をつくる。

「あー、……なんか、家の都合で、まだしばらく海外にいるみたい」


「えーっ! そうなんですかあ!」

 りりあが大げさに肩を落とす。

「新人戦の応援、来て欲しかったのにー!」


 その言葉に、澪は前に一歩出て胸を張った。

「大丈夫!私がちゃんと応援行くから。だから目指してよ、団体戦でも、個人戦でも県大会!」

「はいっ!」

 ひなたが元気よく返事をする。その瞳はまっすぐで、澪の胸が少し熱くなった。


 そこへ、新部長の優理が静かに口を開いた。

「まずは十月の地区大会突破目指して、精一杯頑張ろう!」

 

「はい! 優理先輩!」

 ひなたが力強く頷くと、隣の杏がにやっと笑った。

「そうそう!私も副部長になったからには、澪先輩よりもビシバシ厳しくいくからね!」

 

「うっ……澪先輩以上に厳しくですか……杏先輩頼りにしてます!」

 後輩たちが声を揃える。


 灯がふっと柔らかく笑って言った。

「私たち三年生も、時間があるときはこうやって部活の様子を観に来るから。後輩たち、頑張るんだよ」

「そうそう、応援してるからね」

 詩音もにこやかに声を重ねる。


 「はいっ!」

 部室いっぱいに、元気な返事が響いた。


 その輪の中で、澪も笑っていた。けれど心の奥では――。

(……夏が終われば帰ってくるって思ってたのに、カイ、どうしちゃったんだろう)


 騒がしい笑い声にまぎれて、その胸のざわめきだけが静かに残った。


 その日々は、表向きには何も変わらず続いていった。

 授業に追われ、模試の予定に気を揉み、後輩たちの笑顔に背中を押される。

 けれど、ひとりになると心の奥に沈んだ空洞がじわじわと広がってくる。


(……私が、呪いを解けなかったせいなのかな)

 そんな思いが、ふいに胸を刺す。最後にカイの姿を見た日の記憶は、何度繰り返しても靄の向こうに遠ざかるばかりだ。


 突然降ってきて、好き勝手に人を巻き込み、正直「迷惑だ」と思ったこともある。

 でも――。

 気づけば、彼のいない日常の静けさが耐えがたいほどに重く感じられていた。


(なんでだろう。いなくなってからの方が、余計に考えてばっかり……)


 窓の外を渡る風に紛れて、あの声が聞こえたような気がして、思わず顔を上げる。

 そこにいるはずもないのに。

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