24.距離
――結局あの日、カイは夜中になるまで帰ってこなかった。
理由を問いただすこともなく、澪はそのまま布団に潜り込んだ。
ほんの少しだけ胸に引っかかったけれど、眠りに落ちる頃には「まあ、気にしても仕方ないか」と自分に言い聞かせていた。
それから数日。
カイは以前よりほんのわずかに距離を置くようになった。声をかければ普通に返ってくるし、食卓での会話もいつも通り。けれど澪には――ふっと視線を逸らす仕草や、何かを考え込む横顔が増えたように思えた。
それでも澪は、踏み込んで問いただすことができなかった。
気づけば視線でカイの様子を追ってしまうけれど、声をかけるタイミングを見つけられずに、そのまま飲み込んでしまう。
自分の胸に引っかかる違和感をどう扱えばいいのか分からず、気づけば進路のことや夏休みの予定に考えを逃がしていた。
***
終業式前日の放課後。
校舎を出た瞬間、ひなたとりりあに肩をがしっと掴まれる。
「澪先輩! 夏休み、海行きましょうよ!」
「そうそう! せっかくだからみんなも誘って! 絶対楽しいですよ!」
「海か……夏休みだもんね! いいじゃん。行くか!」
澪はあっさり頷き、笑ってみせる。
「やったー!」
ひなたとりりあが同時に跳びはねる。
その場にいたカイにも「カイ先輩もぜひ!」と声がかかる。
彼は一瞬だけ間を置き、口元に笑みを浮かべてから言った。
「んー……僕は遠慮しとくよ。日焼けはしたくないし、何より暑いの苦手なんだ」
「え~、夏は暑くて当然じゃないですか。そんなの理由にならないですよ!」
ひなたが思いきり口を尖らせる。
「夏休みに海に行かないでどうするんですか!」
りりあもくすっと笑いながら腕を組む。
「なんなら、私の絶対に焼けない日焼け止め貸しましょうか? でもカイ先輩なら、ちょっと位焼けても絶対似合うのに~。」
澪も横から口を挟む。
「女子高生の私たちですら、日焼け覚悟で海に行くんだよ? なのにカイが“焼けたくないからパス”って……」
「ちょっと待って、それ差別じゃない?」
カイは大げさに肩をすくめ、わざとらしく抗議する。
「肌を美しく保ちたい気持ちは、男も女も関係ないと思うんだよね」
「……はいはい、わかったわかった」
澪は呆れ顔をしながらも、つい笑ってしまう。
りりあがけらけら笑い、ひなたも「じゃあ日傘持ってきます?」と茶化す。
「いやいや、そこまでして行かなくても。……僕はやっぱりパスで」
カイは笑ったまま、すっと身を引いた。
にぎやかな笑い声の余韻の中で、澪はふと横目でカイを見た。
――笑ってはいるけれど、ほんの少しだけぎこちない。
胸の奥に、小さな違和感が残った。
***
その夜。
「ねえ、コンビニ行かない?」
澪が部屋の戸をノックすると、カイは面倒くさそうに顔を出した。
「……今から? 眠いんだけど」
「どうしてもアイス食べたくなっちゃって。私がおごるから!」
しぶしぶという顔をしながらも、カイは肩をすくめてついてきた。
「こんな時間に食べたら太るよー」
「アイスくらい大丈夫! ほら、行こうよ」
夜道にはまだ熱気が残り、アスファルトの匂いがわずかに鼻をつく。街灯に照らされた道を並んで歩きながら、澪は笑った。
「もう、夜になっても全然涼しくないね」
「夏だからね」
言葉を交わしながら歩いていると、澪がふと愚痴をこぼす。
「そういえばさ、夏休みの宿題……うちのクラス、メチャクチャ多かったんだよ。しんど」
カイは横目で笑ってみせる。
「僕が魔法で終わらせてあげようか?」
「答えが分かってること聞かないでよ」
澪は呆れ顔で返す。
「はいはい。でも僕は魔法で終わらせるけどね」
「ずるーい! ちゃんと自分の力でやりなよ!」
「僕に現代文の評論文とか解けると思う?」
「……卑怯者ー!」
二人は同時に笑い声を上げ、夜風に響いた。
しばらく歩いた後、澪が小さく口を開く。
「ねえ、カイ。最近ちょっと元気ないよね。なんか、悩んでる?」
その言葉に、カイは一瞬だけ足を止めた。だがすぐに歩き出し、軽く首を振る。
「……別に。そんなことないよ」
「ほんとに?」
澪は少しだけ声を落とす。
「無理に言わなくてもいいけどさ。誰かに話したら楽になることだってあるかもしれないし。私でよければ、聞くからさ」
「どうしたの、急に」
カイが笑うと、澪は夜空を仰ぎながら答えた。
「いつもカイって、なんでもないような顔してるじゃん。でも……呪いのこととかあるし、本当はしんどい時もあるんじゃないかって思ったんだ」
風に髪を揺らしながら、澪は続ける。
「約束の100日まで、もう半分過ぎたでしょ? このままいけば、カイの呪いだって解けるんでしょ? もし何か協力できることがあれば言ってよね」
しばしの沈黙のあと、カイは小さく「ありがとう」とだけ答えた。
その横顔は、どこか遠いものを抱えているようで、澪は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
けれどカイは、ふっと話題を変えるように口を開いた。
「それよりさ。明日、例のオープンキャンパスでしょ? 何時に家を出るの?」
「あ」
澪の顔が固まる。
「……まさか忘れてたんじゃないよね?」
呆れた声でカイが問いかける。
「い、いや、忘れてたわけじゃ……ちょっと気が抜けてただけ!」
「それを忘れたって言うんだよ」
澪が誤魔化すように笑うと、カイは肩を揺らして笑った。
「ほんと君ってさ……相変わらずだよね」
街灯の下で、二人の笑い声が重なった。
夜空はまだ蒸し暑さを含んでいたが、不思議とその時間だけは少し涼しく感じられた。
コンビニに着くと、澪はアイスを二つ持って戻ってきた。
「ほら、カイの分も買ってきた。どうせ欲しくなるでしょ?」
にっと笑って一本を差し出す。
「……僕の意思は確認しないんだ」
苦笑しながら受け取り、包み紙を破った。
夏の湿った風が頬をなで、冷たい甘さが舌の上で溶けていく。
澪は無邪気にかじったアイスを掲げて「うまっ」と笑い、カイはその横顔をちらりと見て、小さく口元をゆるめる。
街灯に照らされた二人の影が、ゆるやかに並んで伸びていた。
***
自室に戻ったカイは、ベッドに腰を下ろし、食べ終えたばかりの冷たさを舌に残したまま静けさに身を沈めた。
カイは両掌を静かに広げた。そこに淡い光が咲き、白月花が浮かび上がる。
花はみずみずしく咲き誇り、ひとひらの花弁さえも揺るがずに輝いていた。
その姿をしばし黙って見つめ、何かを思い巡らせるように瞳を細める。やがて小さく息を吐き、指先で花弁を軽く払った。
その瞬間、空気が震える。
窓から差し込む光がにじみ、影がゆっくりと形を結んでいく。
淡い光の中で、濃紫の髪が揺れた。
土埃と血にまみれた外套の裾が床を擦り、リュシアは荒い呼吸のままカイを見据える。
「……出陣命令です」
低く、しかしはっきりと告げられた声。
カイは目を細め、立ち上がる。
「どこ?」
「西の国境です。反乱軍が隣国と結託して攻め込んでいます。前線は押され続け、このままでは防衛線が崩れます。
――陛下の命により、魂の見極めを一時中断し、戦に加わるようにとの勅命です」
リュシアの頬を伝う汗と、外套にこびりついた黒ずんだ泥。
それが、ただの伝令ではなく、すでに彼女が戦場に身を置いていたことを雄弁に物語っていた。
カイは短く息を吐き、窓の外に視線を投げた。
月明かりに照らされた街並みは、まるで戦など存在しないかのように静かに眠っている。
――その中で、さっきまで隣で笑っていた少女の顔が、不意に胸に浮かんだ。
胸の奥が、ほんの一瞬だけ揺れた。
だがすぐにまぶたを伏せ、低く独り言のように零す。
「……今回は、少し時間がかかりそうだな」
言葉が消えるのを待たずに、リュシアがきっぱりと声を重ねる。
「団長、急ぎましょう。時間がありません」
濃紫の髪が揺れ、月明かりにきらめく。
その瞳は、ためらいを許さぬように鋭く光っていた。




