23.十八年
休日の朝。
白川家のリビングには、いつもより少しだけ改まった空気が漂っていた。
窓越しの光が白いカーテンを透かし、テーブルの上のコーヒーの湯気をやわらかく揺らしている。
スーツ姿の父がネクタイを整え、澪は制服に袖を通し、カバンを肩に掛けていた。
その様子を目にしたカイは、思わず首をかしげる。
(……澪の誕生日だし、どこかでお祝いでもするのかな)
父が振り返り、カイに声をかける。
「カイ、これから澪と出かけるんだが……よければ一緒に来ないか?」
「えっ、でも……」
澪が慌てて言いかけるのを、父は穏やかな笑みで制した。
「同じ屋根の下で暮らしているんだ。もう家族みたいなものだろう? 賑やかなほうが、きっといい」
澪は口を閉じてうつむき、カバンの持ち手をぎゅっと握る。
その小さな仕草に気づきながらも、カイは肩をすくめて笑った。
「……じゃあ、お邪魔させてもらおうかな。行き先は――まあ、着いてからのお楽しみってことでいい?」
父は何も言わず、ただ軽く頷いた。
澪は答えを飲み込んだまま、視線を床に落とし続けていた。
***
電車を乗り継ぎ、やがて三人は駅前に降り立った。
潮風を含んだ夏の風が流れ、通りに並ぶ花屋から、微かに甘い香りを運んでくる。
澪は足を止め、遠目に花屋に並ぶ花々をしばらく眺めた。
「……あそこの花屋さん、行ってくる。今年は私が選びたいから。お父さんはここで待ってて」
「そうか、じゃあ頼んだよ」
父は頷き、背後のベンチに腰を下ろした。
澪はカイの袖を軽く引き、花屋の方へと歩き出す。
店先に漂う花の香りは、近づくにつれはっきりと主張してくる。その香りに包まれながら、澪は小さく口を開いた。
「ねえ、カイ。今日のお願い……してもいい?」
「……もちろんかまわないよ。でも、いきなりどうしたの?」
澪は少し息をのみ、瞳をまっすぐに向けた。
「前に出してくれた、満開の桜の花。あれを、もう一度出してほしいの」
夏の陽射しの下には似つかわしくないその願いに、カイは一瞬だけ目を瞬かせる。
けれど何も言わず、澪の手を取ると、人通りの少ない路地に入り、そこでそっと手を広げた。
淡い光が揺らめき、次の瞬間、カイの手に数本の枝が現れ、無数の花びらが咲き誇った。
季節を越えて現れた桜は、真夏の風にふわりと揺れて、光をはじくように淡く輝いた。
澪は両腕でその枝を抱きしめるように受け取り、微笑んだ。
「ありがとう」
二人が戻ると、父が思わず目を見張った。
「……桜? こんな時期に?」
枝に咲き誇る花を前に、父はしばし黙し、それから穏やかな声で言った。
「一番好きな花だったから……きっと喜ぶよ」
その言葉に澪は静かに頷いた。
やがて三人は再び歩き出す。向かう先は、海の見える丘の上――。
***
海へと続く坂道を登るにつれ、潮の香りが濃くなる。
夏の光を受けた草木がざわめき、蝉の声が途切れ途切れに響いていた。
やがて三人は、海を一望できる丘に辿り着いた。
眼下には陽をはじく水面が広がり、群青と翡翠を混ぜたような色で、きらめきを絶え間なく繰り返している。
その美しさを背に、灰色の墓石が並ぶ霊園が静かに広がっていた。
父が歩を止め、一つの墓標の前に立つ。
澪は隣に並び、抱えてきた桜の枝をそっと置き、両手を合わせる。
父も同じように祈りを捧げ、それから穏やかに墓へ語りかけた。
「……君がいなくなってから、十八回目の夏が始まったよ。
今日は甥のカイも一緒に来てくれた。澪と同い年でね、学校でも家でも澪の面倒をよく見てくれているんだ」
「ちょっと! 私が面倒見てるほうだからね!」
横から澪が慌てて口を挟む。
父は思わず笑い、肩を揺らした。
「はは……今年は賑やかでいいだろう?」
風が吹き抜け、桜の花びらがひとひら舞う。
夏の陽射しの下に咲き誇るその花は、季節を越えた奇跡のように墓前を彩っていた。
その光景を見つめながら、カイの胸にひとつ、重いものが落ちた。
――澪の誕生日と、母の命日が同じ日だということを、ようやく理解したのだった。
父の背筋は真っ直ぐに伸びていたが、その手がわずかに震えているのをカイは見逃さなかった。
潮風が吹き抜け、墓前に供えられた桜の花がかすかに揺れる。
父はその花に視線を落とし、静かに口を開いた。
「……澪も十八歳になったよ。信じられないけど、もう大人なんだな。君も、きっと見守っているだろう」
言葉は海風に溶け、夏空の下、墓標に寄り添う桜の枝を揺らした。
澪はそっと瞳を閉じ、その声を胸に受け止めていた。
――十八歳。
誕生日を祝う言葉の裏に、命日を悼む想いが込められている。
カイの胸の奥に、冷たいものがじわりと沈んでいった。
この日が澪にとって、喜びと哀しみの両方を背負う日なのだと。
***
霊園をあとにし、三人は海辺の小路をゆっくりと下っていった。潮の匂いが混じる風が頬を撫で、夏の日差しが眩しく路傍の草を揺らす。遠くに見える海面が陽を受けてちらちらと光るのを、澪は何度も目で追っていた。
歩きながら、澪がぽつりと口を開く。声は穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。
「お母さんはさ、私を妊娠中に病気になったんだって。私を諦めてすぐにでも治療を始めれば助かったかもしれないのに、お母さんはそうしなかったんだって」
カイはうなずき、澪の顔を見た。夏の陽射しで日焼けしたその頬に、柔らかな表情が浮かんでいる。
「でも、私がお腹の中で育つにつれて、自分の病気もどんどん悪くなっていって……それでも耐えて、私を生んでくれたんだって。
きっと、痛くて苦しかったと思うんだ。……でもお母さんは諦めなかった。凄いなって思う」
少し照れたように笑いながら、澪は言葉を繋げる。
「だからさ、私は――お母さんに繋いでもらったこの命を、無駄にしないでちゃんと生き切らなきゃって思うんだ。苦しくても、逃げたくなっても、最後まで全力で。……そうやって生きてこそ、お母さんが守ってくれた意味になると思うから」
澪が母のことを語り終えたあと、少し間をおいて父が穏やかに口を開く。
「……きっとお母さんにとっては、自分を守ることよりも、澪を抱きしめられる一瞬のほうが何より尊かったんだろう。その一瞬さえあれば、たとえその日が最後でも……悔いはなかったはずだ」
澪は小さくうなずき、前を向いたまま歩みを続ける。
その横顔を見つめながら、カイの胸の奥に、言葉にならない圧のようなものが広がっていった。
――その手に抱きしめる、一瞬のために、命をかけて澪を産んだ。
(……僕には理解できない。けど、その選択に宿る強さと愛だけは、確かに伝わってくる)
潮風が横を抜け、カイはふと空を仰いだ。光をはじく波面が一面に広がり、そのまぶしさの中で、彼は黙り込むしかなかった。
――僕が知っている「強さ」とは違う。
戦場で振るう力でも、誰かを従わせるためにかける呪いの力でもない。
ただ命をつなぎ、託された想いを抱いて前を向く、その在り方。
カイは一度小さく息を吐き、視線を落とした。足元の石畳を照らす陽射しが強すぎて、影だけが長く続いていた。
やがて三人がレストランの前に立つと、ガラス越しに昼の賑わいが見えた。
澪が扉を押し開けようとする瞬間、カイがふいに腕を止めた。眉根を寄せ、小さく息を吐く。
「ごめん、急に思い出した用事があるんだ。先に帰るよ」
父は驚いたように目を見開く。
「え、カイご飯食べて行かないのか?」
カイは肩をすくめ、どこかぎこちなく笑ってから言った。
「うん、ごめん、夜には帰るから」
「分かった」
澪はそれでもにっと笑い、手を振って見送った。カイはそのまま店の入口を離れ、街へと歩き出した。
人通りのある通りに出ると、都会の喧噪が静かに戻ってくる。歩きながら、カイの頭にこれまでの断片がふと浮かんだ。
――今まで、僕が試してきた他の娘たちも、あんな風に親に愛されて命を繋いできたのだろうか。
――僕はそんなこと、考えもしなかった。
目的のために近づき、彼女たちを顔だけで数え、裏側の生活や痛みに思いを馳せることなどしなかった自分。そうしてきた自分のやり方を、初めて違和感として意識する。胸の中に、冷たいものが静かに広がる。
澪の背後にある「誰かの想い」に触れてしまった今――これまで当然だと思ってきた手順さえ、ためらいに変わっていく。
カイは立ち止まり、無意識に鞄へ手を伸ばした。取り出したのは、リュシアが選んでくれた澪へのブレスレット。
小さな箱は赤いリボンで丁寧に結ばれていて、片手に収まるほどの大きさしかない。
けれどその軽さの裏で、不思議なくらいの重みが、彼の掌へと沈んでいった。
箱を掌で転がし、カイは呟くように言った。
「こんなものを、僕が渡していいはずもないのに……」
もし澪が――本当に“星永の乙女”だったとしたら。
そのとき僕は彼女を……。
答えのない問いを胸に抱えたまま、カイは再び歩き出す。街のざわめきに溶け込み、影が長く伸びる道を、彼はプレゼントの箱を握りしめたまま消えていった。




