2.困惑の朝
翌朝。
洗面所に立つ澪の耳に、柔らかい声が届いた。
「おはよう、澪」
その声を聞いた瞬間、澪はゆっくりと顔を上げ、鏡の中の自分を見つめた。寝ぐせのついたショートカットの髪、半分しか開いていない目――そして背後に、確かに立っている“彼”の姿。
銀の髪に深い蒼の瞳、肌はまるで陶器のように滑らかで、寝起きの自分と対照的な彼の姿が、朝のだるさをじわじわと増幅させていく。
(……夢じゃ、なかった)
昨日、流れ星と一緒に現れた銀髪の少年――カイ。
あのあと澪は、夕食を食べたはずだった。何を話したかも覚えていないほど、部活の疲れが全身を襲い、ベッドに倒れこむようにして眠ってしまった。
朝、目を覚ましたときにはほんの少しだけ期待していた。“全部夢だった”なんて、都合のいい話を。
でも、夢じゃなかった。
ああ、現実だったんだ――と思った途端、こめかみがずきりと痛む。
「朝ごはん、僕が用意しておいたから」
洗面所のドアの向こうで、楽しそうなカイの声が響く。
「えっ……あ、あんたが朝ごはんを?」
澪の家は父と二人暮らし。
朝ごはんは、いつも朝練前に澪が用意していた。それが終わる頃、父がのそのそと起きてきて、澪が仕掛けておいた洗濯物を干し、彼女の作った朝食を食べてから出勤する――それが日々の“ルール”だった。
恐る恐るリビングへ足を運ぶと、テーブルにはきちんと整えられた朝食が三人分、並べられていた。
焼きたてのトーストに、ふわふわのスクランブルエッグ。カリッと焼かれたベーコンに、彩り豊かなグリーンサラダ。テーブルの端には、小さなガラスの器に入ったヨーグルトと、蜂蜜まで添えられている。
「……なにこれ、カフェの朝ごはん……? 私が作るよりも断然美味しそう……」
澪は思わず呟いた。
「なんで……私がこの時間に起きるの、知ってたの?」
「僕は魔法使いだからね。この家に聞いたんだ。君の生活リズムとか、家族のことも全部」
「家に聞くってどういう理屈よ……」
「さぁねー。とにかく、朝ごはん食べよう。ゆっくりしてる時間はないでしょ? 澪」
カイはにこにこと笑って椅子を引いた。
「……私の名前も、魔法で知ったわけ?」
「いや、それは君とお父さんの会話を聞いてれば自然と分かるよ。白川澪ちゃん」
いつものテンポで返されて、澪はため息をひとつ吐いた。
「……いただきます」
そう言って、スクランブルエッグを一口。ふんわりとしていて、口の中にやさしいコクが広がる。
(美味しい……けどなんだろうこの敗北感)
「ねえ、朝って忙しいから、今はあんまり話してる時間ないけど……帰ってきたらちゃんと話、聞かせてよ。魔法とか、正直今でも信じてない。でも、魔法ってことにしておかないと説明つかないことが多すぎて……正直、頭がついていかないんだ」
「やっと、僕の話を聞く気になってくれたんだ。嬉しいよ」
カイは目を細めた。
「まずは、学校に行く途中で僕の自己紹介をさせてよ」
「……学校に行く途中?」
怪訝な顔で澪が問い返すと、カイはスッと立ち上がった。
そして、身につけていたのは――。
「え、ちょっと待って……それ、うちの制服じゃん!? もしかして……」
「うん。僕は今日から君と同じ高校に通うんだ。白川澪の“いとこ”として、ね」
そう言って、ウインク。
唖然とする澪に、追い打ちのように時間の現実が迫る。
「……って……あっ!! もうこんな時間っ! 朝練遅刻する!」
バタバタと食器を片づけ、食洗機に放り込むと、寝室のドアへ駆け寄った。
「お父さーん! そろそろ起きて! 私、学校行ってくるねー! 洗濯、仕掛けてあるからよろしくね」
返事を待たずに、リュックを背負い、ラケットケースを手にして玄関を飛び出す。
後ろからは、爽やかな声が追いかけてきた。
「待ってよ、澪。僕も一緒に行くんだから!」
ああもう、なんでこんなことになってるの――!?
澪の一日は、朝の光の中で、なんの予告もなく“非日常”へと足を踏み出していった。




