19.揺る
「団体戦はベスト十六。胸を張れ、お前たち!」
桐谷先生の声が、まだ熱を帯びたコートに響いた。
負けは悔しい。けれど最後まで戦い抜いた仲間たちの表情は、涙と笑顔が入り混じり、眩しかった。
「澪、ナイスプレー!」
「琴羽もすごかった!」
肩を叩き合いながら、ひとりひとりの声が名残惜しげに響く。
試合は終わった。太陽も、少し傾きかけている。
フェンスの向こう、父が目元を拭っているのが見えて、澪は胸の奥が温かくなるのを感じた。
やがて皆で他校の試合を見届け、解散の時間になった。
「じゃあ、また学校で!」
「打ち上げ、楽しみにしてるからね!」
夕焼けに染まる駅への道に、笑い声が遠ざかっていく。
――ふと。
(……あれ? カイ、どこに行ったんだろう)
仲間と並んで歩きながら、澪は首をかしげた。
試合前は確かに応援に来てくれていたのに、気づけば姿が見えなくなっていた。
試合に集中していて、すっかり忘れていた自分にも驚く。
胸の奥がざわつき、澪は足を止めた。
「ごめん、やっぱり少し寄り道してく」
仲間たちにそう言って別れると、会場の周辺へと引き返した。
風に吹かれ、砂入り人工芝の匂いがまだ漂っている。夕暮れの光が、空とコートをオレンジ色に染めていた。
人影がまばらになったスタンドのそばで、不意に声がした。
「……足、痛いのに歩き回っちゃダメでしょ」
振り返った澪の目に飛び込んできたのは、ベンチに寄りかかるカイの姿だった。
青い瞳はいつも通りの調子なのに、不思議と胸がほっとした。
「カイ……」
言葉を探す間もなく、彼に手を引かれて近くのベンチに座らされた。
「ほら、じっとして」
カイの指先から柔らかな光が溢れ、足首を包み込む。瞬く間に痛みが引き、驚きに澪は目を瞬かせる。
「……気づいてたの?」
「まあね。途中からずっと」
軽く笑って言うその声音は、どこか優しかった。
「どうして途中からいなくなったの?」
澪が問うと、カイは少し目を伏せて答えた。
「……これまでの努力を仲間と分かち合う場に、僕はいなくていいんじゃないかと思ったんだ」
そして肩をすくめ、冗談めかして続ける。
「でも、先に治してあげればよかったね」
治った足をそっと動かしながら、澪は改めてカイを見つめた。
「……魔法って、本当にすごいね。今日ベストメンバーで戦えたのも、灯の足を治してくれたカイのおかげだよ。休みの日も、練習に付き合ってくれて……ありがとう」
初めて、真正面から素直に伝えた。
カイは一瞬、返事を失ったように黙り込む。
やがてゆっくり口を開いた。
「君が望むなら、今日の試合だって魔法で勝たせてあげられた。けど……そんな勝ち方、君が望むはずもない」
深海のような瞳がまっすぐに澪を見つめる。
「君は勝利よりも、皆で積み上げてきたものを信じて戦いたかったんだろ?」
澪は一瞬、驚いた顔をした。けれど、すぐに小さくうなずく。
「……うん」
まっすぐにカイを見返し、笑みを浮かべた。
「勝ち負けだけじゃないんだ。最後の夏だからこそ、仲間と一緒に全力でやり切りたかった。悔しくても、笑えるくらい全部出し切って終わる――それが、私にとって最高のテニスだから」
その瞬間、カイの中で澪という存在が、少しだけ今までとは違って見えた。
***
土曜の夜。試合が終わって家に帰り、シャワーを浴びて部屋着に着替えた澪は、ベッドの上に腰を下ろし天井を見上げていた。
(……もう、部活も引退か)
張り詰めていた糸が切れたように、胸の奥がぽっかりとする。
三年間、朝も放課後も、汗だくになって走って、声を枯らして笑って。
勝利の喜びも、悔しさに泣いた日も、三年間のすべてが今は愛おしい。
机の上に置いたスマホが小さく震えた。画面には《吉岡ひなた》の文字。
開いてみると、絵文字まじりで明るい文章が飛び込んできた。
《来週、りりあも誘って一緒にショッピングに行きませんか? もちろんカイ先輩も!》
(もちろんってなによ、ひなたらしいな……)
澪は思わず笑みをこぼす。カイと一緒に買い物――想像して、ほんの一瞬だけためらった。
それでも結局、足は自然と隣の部屋へ向かっていた。
ノックしてドアを開けると、机に広げた本をぱたんと閉じたカイがこちらを振り向く。
「なに?」
「来週さ、ひなたとりりあと一緒に買い物行くんだけど……行く?」
澪が探るように声をかけると、カイの顔がぱっと明るくなる。
「行く行く! ちょうど新しい服欲しかったんだよね」
「そ。じゃあ、ひなたに言っとく」
背を向けてドアノブに手をかけたとき、不意に後ろから声が飛んできた。
「そういえば――今日のお願い、何にする?」
澪は振り返って少し首をかしげた。
「お願い? ……足はもう治してもらったし」
カイは苦笑いを浮かべて首を振る。
「あれは僕が勝手にやっただけで、君の願いじゃない」
澪は少し考え込むように視線を落とし、それからゆっくり顔を上げた。
「……じゃあさ。今朝はごまかされたけど――昨日、なんであんなにボロボロになって帰ってきたのか、教えてよ」
夜の灯りの下で、二人の視線が重なった。
澪のまっすぐな瞳に射抜かれ、カイは言葉をのみ込んだまま小さく息をついた。
「……ちょっと、人が危ない目にあっててさ。たまたま近くにいたから助けただけだよ。まあ、ヒーローみたいなものかな?」
「えっヒーロー?……」
澪は瞬きをして、それからぱっと顔を明るくした。
「あ、だからか。あの異世界風のコスプレしてたの。……カイって、そういうとこ形から入るタイプなんだね」
軽く茶化したあと、澪は真剣な表情になった。
「でも……あんな怪我して帰ってくるなんて。たとえ人助けだったとしても、カイが怪我したら意味ないでしょ」
「……コスプレ? いや……」
カイの笑みが一瞬だけ固まる。
でも、次の瞬間――いつも通りの調子で言葉を放つ澪を見て、不思議と肩の力が抜ける。
「ほんと君って……」
カイは小さく笑った。
(……君を見てると、昨日自分が戦場にいたなんて、とても思えない。全部遠い出来事みたいに霞んでいく)
「……ところでさ、僕のこと、なんでそんなに気になるの? 出会った頃は早く出ていって欲しいっていってたじゃない?」
ふと、軽く投げるように問いかける。
「そりゃ……」
澪は少しむっとしたように眉を寄せた。
「目の前であんたがあんな怪我してる姿見たら、心配するでしょ」
その言葉に、カイは目を細める。胸の奥に、不意打ちのような痛みと温かさが同時に広がった。
「まただ……」
思わず口から零れる。
「また君は、僕をそんなふうに……普通の友達みたいに、普通の人間を心配するみたいに接してくれるんだね」
澪はきょとんとしたまま、ただ彼を見つめていた。
その視線から逃げるように、カイはゆるく笑みを作って背を向けた。




