18.最後の夏
カーテンの隙間から差し込む朝の光に、澪はまぶしそうに目を細めた。
胸の奥がどくんと跳ねる。――今日は、ついに大会の日だ。
その高鳴りと同時に、昨夜の光景が脳裏に蘇る。
血に濡れたカイの姿。鋭い瞳。
「……っ!」
澪は布団をはねのけ、飛び起きた。
「カイ……!」
スリッパも履かずに廊下を駆け、ノックも忘れてカイの部屋へ飛び込んだ。
ベッドには眠っているカイの姿。澪はためらいなく布団を捲ると、その腕をつかんだ。
――傷が、ない。
血に濡れ、痛々しく裂けていたはずの腕が、何事もなかったようにきれいな肌を見せていた。
「え……どういう……」
澪が目を丸くした瞬間、カイが片目を開け、口元ににやりと笑みを浮かべた。
「やだなぁ澪ちゃん、朝から積極的だね。エッチ」
「はあっ!?」
澪は思わず顔を赤くして手を放した。
「ち、違うし! カイの腕、昨日ケガしてたでしょ!? 血だらけで……」
「ん? なにそれ」
カイは大あくびをして上体を起こし、伸びをする。
「夢でも見たんじゃない? ほら、どこにも傷なんてないでしょ」
「……っ」
澪は言葉に詰まる。確かに、目の前の腕には傷一つ残っていない。
カイはふっと柔らかく笑い、話題を変えるように言った。
「それより――今日はついに大会だね。頑張って。僕もちゃんと応援に行くから」
その笑顔に、昨夜の違和感は霧のように薄れていく。けれど胸の奥に小さなひっかかりが残った。
壁の時計を見て、澪は飛び上がるように声を上げた。
「やばっ! もうこんな時間!? 急がなきゃ!」
慌てて着替えを済ませ、ラケットケースを肩にかける。
カイのことは気になる。でも――今は試合に集中しなきゃ。
朝食を食べ終え、玄関へ向かうと、父がマグカップを片手に立っていた。
「おー、澪。いよいよだな」
にこっと笑いながら、少しだけ眉を下げる。
「うん!」
靴を履きながら振り返る澪に、父は続けた。
「俺も後で会場行くから。気張りすぎないで楽しんでおいで」
「ありがと! じゃ、行ってきます!」
玄関を勢いよく飛び出す澪。
その背中を見送りながら父は「頑張れよ」と小さく呟いた。
駅へと駆ける澪の後ろから、慌ただしい足音が追ってくる。
「待ってー! 澪!」
振り返ると、シャツを半分着崩したカイがバッグを片手に走ってくる。
「置いてかないでよ。僕も行くんだから」
朝の光の中、二人は並んで駅へと駆け出した。
***
県大会二日目。
初夏の日差しが容赦なく照りつける総合運動公園のコートに、鳴海学園高等学校の声援が響いていた。
「一本一本、集中!」
澪の掛け声に応じるように、仲間たちの返事が重なる。
序盤の2回戦までは、まるで波に乗ったようだった。
杏と優理のペアは軽快なテンポでポイントを重ね、澪と琴羽も堅実なラリーで相手を封じ込める。
高宮灯のシングルスも冴え渡り、どの試合も危なげなくストレート勝ち。
ベンチに戻る仲間たちの顔は汗に濡れて輝いていた。
――だが、勝負はここからが本番だった。
3回戦。
最初にコートに立った杏と優理のペアは、互角の打ち合いを繰り広げながらも、あと一本が遠かった。
マッチポイントを握られても必死に食らいついたが、最後はネットをかすめてボールが落ち、惜しくも敗れる。
「ごめん……!」
肩を落とす優理の背を、杏が叩いた。
「全然! ここまで粘ったんだし、次に生かそう!」
続くシングルス。
灯は鋭いストロークで相手を押し込み、見事勝利。
ベンチに戻ると、悔しさを引きずる杏と優理に笑顔を向ける。
「大丈夫、まだ繋がってる」
そして澪と琴羽のダブルス。
序盤から相手に押される場面もあったが、琴羽の落ち着いた配球と澪の果敢な前衛プレーで流れを取り戻し、勝利をつかんだ。
こうして3回戦を突破し、歓声に迎えられる。
だが、続く4回戦。
杏と優理は持ち味を発揮して勝利を収めたものの――次のシングルス、灯が強敵に押し切られ、涙をこらえながらコートを後にした。
「……あとは、任せた」
ベンチに戻りながら、灯は澪と琴羽に力強く託す。
迎えた最終戦。
澪と琴羽のペアに、チームの勝敗が託された。
「澪、落ち着いていこう」
琴羽の低く穏やかな声が背中を押す。
「うん!」
澪はラケットを握り直し、ネットの向こうを睨んだ。
「頼むぞ、澪!」
「琴羽、負けるな!」
フェンスの外から仲間たちの声援が響く。父の声も、熱を帯びて混じっていた。
序盤、澪と琴羽の息はぴたりと合っていた。澪が前でボレーを決め、琴羽が後ろから粘り強くラリーをつなぐ。押し込まれそうになっても、二人で必死に食らいついていった。
――だが、ある瞬間。
澪の足が、砂入り人工芝の上でわずかにもつれた。小さな悲鳴が喉に上がる。
(……しまった!)
足首に鋭い痛みが走る。それでも澪は顔を歪めることなく、次のボールへ飛び込んだ。
観客席の隅、静かに佇むカイだけが、その異変を見逃さなかった。
澪の動きがほんのわずかに鈍ったこと、足をかばうように体重移動が偏ったこと――すべてを。
カイの瞳に青白い光が宿る。
(……澪の足……ここからでも治せるな……)
そっと手を前に突き出した、その時。
脳裏に蘇ったのは、雨の夜、橋の下でひたむきに壁打ちを続けていた澪の姿だった。
蒸し暑さの中、汗と水滴に濡れながら、誰に見られることもなく打ち込み続けた背中。
――「最後まで精一杯、自分で出来ることをしたいんだ」
あの時の言葉が、耳の奥で鮮やかに響いた。
カイは唇を強く噛み、伸ばしかけた手を下ろす。
(いや……君は望まない。皆と同じ条件で、最後まで戦うことを選ぶはずだ。痛みも恐れも背負って、それでも前を向くのが――君だ)
胸の奥で、何か熱いものがうずいた。
(僕なんかより、ずっと……強い)
フェンス越しに、父の声が涙混じりに響いた。
「澪――! 最後まで、諦めるな!」
振り返ることはできなかったが、澪の背に、その声はしっかりと届いていた。
足を引きずりながらも、澪は前へ飛び込む。
「……まだ、終わってない!」
痛みをごまかし、必死にボレーを返す。そのたびに、汗と涙が混じった表情がまぶしかった。
琴羽も声を張り上げる。
「一球、絶対に返す!」
二人の声が重なり、最後の最後までラリーは続いた。
――だが、運命のボールは澪の伸ばしたラケットの先をかすめ、無情に弾んだ。
「ゲームセット!」
審判の声が、夕空に響いた。
コートの中で、澪はその場に崩れ落ちる。
琴羽が駆け寄り、震える声でつぶやいた。
「……終わっちゃったね、澪。私たちの夏」
涙で滲んだ視界の中、澪は首を振った。
「うん、終わっちゃったね……でも――みんなで、ここまで来られて良かった、高校生活最高のプレーだったって胸を張って言える!」
父は人目もはばからず、ハンカチで目頭を押さえていた。
フェンスの外で立ち尽くすカイは、ただ静かに彼女を見つめていた。
胸の奥に去来する思いは、自分でも言葉にできない。
――ただひとつ分かるのは。
(君は……本当に、強い子だ)
その言葉が、心の底からこぼれ落ちた。




