17.癒せぬもの
家に戻ってみても、カイの姿はなかった。
玄関に靴が並んでいないのを見て、胸の奥がわずかに沈む。
――灯がベスト八まで進んだこと、早く伝えたかったのに。
そう思ったのも束の間、澪は肩をすくめて荷物を置いた。
けれど夕食の時間になっても、やはりカイは戻らない。
食卓には父と二人きり。少し物足りない静けさが漂っていた。
「澪、明日持っていくおやつ、買ってきてあるから」
食後、父が何気なく声をかけてきた。
「……お父さんって、ほんと大会前の緊張感ないよね」
澪は思わず笑ってしまう。
「遠足じゃないんだからさ」
父もつられて笑った。
「まあまあ。それはそうと、会場は総合運動公園だよな?」
「そうだよ。去年みたいに間違って別の会場行かないでよね?」
澪がにっと笑うと、父は苦笑いを返した。
「今年は大丈夫。土曜日もちゃんと休暇を取ったから。……あ、そうだ。カイも一緒に応援行くのかな? そういえば、まだ帰ってきてないのか。
まあ、彼女もできたって言ってたし、いろいろ忙しいのかもしれないな」
澪は(……その彼女とはもう別れてるよ)と心の中でつぶやいたが、口には出さなかった。
食器を片付け終え、「お風呂入ってくる」と言って浴室へ向かう。
湯船に浸かると、明日の試合が自然と頭に浮かんだ。サーブ、ボレー、相手の返球。イメージトレーニングを繰り返しながら、胸が少しずつざわついていく。
(……はー。やっぱ緊張してきた)
けれどすぐに、自分の手のひらをぎゅっと握る。
(大丈夫。今までの練習を信じよう。私ならできる)
気持ちを整え、湯から上がったときには、時計はすでに九時を過ぎていた。
タオルで髪を拭きながら廊下を歩き、カイの部屋のドアをトントンと叩く。
――反応はない。
少しだけ扉を開けて覗いてみたが、やはり誰もいない。
「まだ帰ってないか……」
小さくつぶやき、自分の部屋へ戻る。
澪は部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。
その瞬間、空気がふっと揺らぎ、青白い光が部屋を満たす。
「……っ!」
反射的に顔を上げた澪の視線の先に現れたのは、カイだった。
深い群青と黒を基調にした見慣れぬ装束――金の刺繍が入ったマントの裾が揺れ、まるでファンタジーの世界からそのまま抜け出してきたような姿。
そして、その服には土埃がこびりつき、袖口は裂け、腕には鮮やかな血が滲んでいた。
「カ、カイ……!?」
驚きと戸惑いの声を上げた澪に、カイは一瞬だけ鋭い瞳を向けた。
普段の飄々とした彼とは違う、冷ややかな光。
心臓を掴まれたような緊張に澪の息が止まる――が、それもほんの刹那のことだった。
「……今、何時?」
視線を柔らかくほどき、いつもの調子を装うように口元を緩める。
「えっ……九時すぎ、だけど……」
「そうか。間に合ってよかった」
小さく息を吐き、へらっと笑う。
「今日もぐっすり眠れる魔法にする?」
「そんな場合じゃないでしょ!」
澪は思わず立ち上がり、彼の腕を掴んだ。
その腕からの出血量の多さを見て、澪の心臓が跳ねた。
「ちょっと待って! 洗って、消毒して……いや、病院に――」
慌てて言葉を連ねる澪の手を、カイは軽く押さえた。
「落ち着いて。……腕……ああ、気づかなかった」
「気づかなかったって……! こんな大けがしてるのに!」
澪は必死に訴える。だがふと、頭にある考えがよぎった。
「……そういえば、カイって怪我とか魔法で治せるんだよね?」
問いかけに、カイは首を横に振った。
「僕は、自分の怪我を治すことはできないんだ」
「えっ……? なんで……?」
問いかけを最後まで言う前に、カイは軽く笑みを浮かべ、澪の額にそっと触れた。
「それより、もう魔法かけるね? 君が寝不足で明日の試合に響いたら困るでしょ?」
「でも……」
その笑みと温もりに抗うことができず、澪の意識は遠のいて行った。
カイは澪をベッドに横たえると、何事もなかったかのように部屋を後にした。
***
澪が眠りについた後。
カイはそっと彼女の部屋を抜け、自分の部屋へ戻った。
扉を閉めた瞬間、空間が揺らぎ、淡い光の渦が生まれる。
そこから現れたのは、蒼のマントをまとった少女――第二宮廷魔導士団副団長リュシア・ヴァレンティナだった。
彼女は迷いなく歩み寄り、カイの血に濡れた腕に手をかざす。
「……癒しの光よ」
淡い輝きが傷口を覆い、裂けた布の下で血が止まっていく。
カイは息を吐き、肩の力をわずかに抜いた。
「助かるよ。……で、あの後の戦況は?」
リュシアは背筋を伸ばしたまま、淡々と告げた。
「敵軍の主力は潰走、残存兵力は三分の一を切りました。補給線も寸断され、再編の余地はありません。――ヴァルディア帝国軍の勝利は、もはや揺るぎないでしょう」
その声には誇張も賛美もなく、ただ事実を積み上げた結論だけがあった。
「……なるほど」
カイは短く答え、椅子の背にもたれる。
「ですが――」
彼女の声が厳しさを帯びる。
「今回はあまりにも無茶をなさいました。リオネス軍の三分の二を、一刻で消し去るなど……常軌を逸しています」
カイは軽く肩をすくめ、口元に笑みを刻む。
「仕方ないさ。あっちで一刻過ごしたら、こっちの世界では一日経っている。僕は今日中に、ここへ戻らなきゃならなかった」
「……澪、という娘のもとへ?」
リュシアの瞳がわずかに揺れた。
カイは一瞬だけ目を伏せ、それからあくまで軽い声色で返す。
「彼女の魂を試している途中だからね。毎日、願いを一つ叶える――彼女にそう伝えている」
「白月花による魂の選定は、本来――合計で百日という時を費やせば十分のはず。欠かさず日々を積み重ねる必要など、どこにもないのでは?」
言葉は静かだが、刃のように鋭い。
鋭い問いかけに、カイは短く息を吐き、視線を窓の外へと向けた。
「そうかもしれないね。けど、毎日少しずつ水をやった方が、花は長く咲くものだろ?
それに……明日は、あの子にとって大切な試合だ。人間というのは、追い詰められた時にこそ真実を口にする。
心の底から願う言葉――それを見極めれば、魂の本質は自ずと現れる」
「……魂の本質、ですか」
リュシアは一瞬だけ視線を伏せた。彼の声に、ただの理屈ではない熱を感じ取ってしまったのだ。
彼女は治癒の光を絶やさぬまま、じっと彼を見つめる。
「……心配です」
リュシアは小さくため息をつき、光を収める。
「あなたは自分を癒せないのですから、どうかこれ以上私から離れないでください」
静寂の中に、まだ血の匂いと、互いの胸に残る言葉が沈んでいった。




