15.雨音に響いて
大会まで一週間を切った。
それなのに連日の雨で、まともにラケットを振ることができない。
校舎の廊下での走り込みや筋トレばかりが続き、澪の胸には焦燥感ばかりが積もっていた。
その夜、ついに我慢しきれなくなった澪は、父に「ちょっとコンビニ行ってくる」とだけ告げて家を抜け出した。
だが、時が経っても戻らない。
時計の針が進むにつれ、父の顔に不安がにじむ。
「……遅いな」
その様子を見ていたカイが、肩をすくめて軽く手を上げた。
「僕が見てくるよ」
傘を手に外へ出る。湿気を含んだ夜気が、肌にまとわりつく。
コンビニの灯りにたどり着くが、澪の姿はなく、人気のない夜道に雨の音だけが響いていた。
耳を澄ますと、その中に混じって――確かに微かなボールの音がした。
――パンッ、パンッ。
カイは足を止め、音の方角へと歩みを速める。
やがて河川敷へ出ると、橋の下に一本の街灯が立ち、淡い光にコンクリの壁を照らし出していた。
雨粒を弾いた水滴が、時折ぽたりと落ちてくる。
その前で、澪がひとり、壁打ちを繰り返していた。
水滴の落ちる橋の下、雨音とボールの音、そして荒い息づかいだけが空気を満たしている。
汗に濡れた髪が額に張りついても、ラケットを振る腕は止まらなかった。
その必死さに、カイは思わず足を止める。
――どうして、こんなに。
蒸し暑さに呼吸はすぐ荒くなるのに、澪は立ち止まらない。
ひたむきにラケットを振り抜き、壁に返したボールを全身で追いかける。
一打一打にすべてを込めるように。
街灯に照らされる横顔は、疲れで陰りながらも強い光を放っていた。
カイは黙ってその姿を見つめ、ふとあの夜を思い出した。
流星となって彷徨っていた自分に届いた、必死な祈りを。
――どうか、インハイ予選、勝てますように! 勝てますように!
君の願いは、空の彼方にいた僕に届くほど強かった。
けれど勝ったところで、何が手に入る?
領土でも、権力でもない。
君は何のために、ここまで身を削るように願えるんだ。
カイはしばらく離れた場所で、その姿を黙って見守っていた。
やがて雨脚が弱まり、静かな小雨に変わった頃、ようやく澪へと歩み寄る。
「澪、もう十一時になるよ。さすがにお父さんが心配してるんじゃない?」
からかうような声に、澪がはっと振り返った。
「カイ……? ――やば!」
慌ててスマホを取り出すと、画面には思った以上に遅い時刻が光っている。
「集中してて、全然気づかなかった……!」
大慌てでボールとラケットを片付け始めた。
その姿を見ながら、カイの口からふと零れる。
「ねえ、どうしてそんなに必死になるの?」
「え?」
「今度の試合に勝つことに、どんな意味があるの?」
唐突な問いに、澪は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに眉をひそめる。
「……なにそれ。わざわざ嫌味を言いに来たわけ?」
「違う」
カイの声は冗談めいていなかった。
「本当に分からないんだ。君がそこまでして練習して……もしインターハイに行けたとして、そこで君に何が残るの?」
澪は口をつぐみ、しばらく黙って雨の匂いを含んだ空気を吸い込んだ。
橋の向こう、街灯に照らされた雨粒が煙のように漂っている。
「……中学まではね」
やがて絞り出すように言った。
「勝つことで、自分が頑張ってきた証明になるんだって思ってた。どこまで勝ち進めたかが、自分の価値なんだって」
そこまで言って、澪は小さく首を振った。
「でも、それだけじゃないって気づいたんだ。どんなに練習しても、相手がもっと強ければ負けちゃう。それは努力が足りなかったんじゃなくて、ただ相手が上だっただけ。……そういうものなんだって」
カイは黙って耳を傾けていた。
澪は真っ直ぐな瞳で彼を見返す。
「それでもね、みんなで同じ目標を目指して、一緒に悩んで、汗を流してきた時間――その全部が、これから先の私を支えてくれる力になると思ってる。だから私は、最後まで精一杯、自分で出来ることをしたいんだ」
街灯に照らされた澪の瞳は、雨上がりの夜にひときわ強く光っていた。
しばしの沈黙ののち、カイの唇にふっと笑みが浮かぶ。
「……手にするものは、形のあるものだけじゃない、か。君って……やっぱり変わってるね」
雨音の遠ざかった橋の下で、二人の声だけが柔らかく響き合った。
やがて荷物を抱えた澪が、「帰ろ」と小さく呟き、二人は並んで河川敷を後にした。
濡れた遊歩道を歩きながら、街灯が足元に長い影を落としていく。
「……ねえ、澪」
ふいにカイが口を開いた。
「さっきの話、ちょっと格好つけすぎじゃない? 青春ドラマのセリフみたいだった」
「はあ!? 真剣に話してんのに!」
澪は思わず声を荒げ、カイを睨み上げる。
カイはへらりと肩をすくめる。
「冗談だよ。でもさ――正直に言うと、君が言ったこと、やっぱり僕にはよく分からない」
澪は少し肩を落とし、でも前を向いたままぽつりと返す。
「……分からないなら、それでいいよ」
その横顔を見つめながら、カイは空を仰いで淡く笑った。
「……分からないけど、君が本気なのは伝わった。だからさ、君の大会――心から応援するよ」
雲の切れ間に星がひとつ瞬いた。
その光の下を、二人は並んで歩いていった。




