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13.波紋

 日曜日の朝。

 玄関で靴ひもを結んでいた澪は、ラケットバッグを背負い、軽く肩を回してからドアノブに手をかけた。

 

 「部活休みなのに練習するの?」

 後ろからのんびりした声がして、振り返ればカイが壁にもたれていた。


 「……まあね。こんな時に休んでられないから」

 澪が答えると、カイは楽しげに片眉を上げる。


 「じゃあ僕も一緒に行くよ」

 「は? なんで」

 「練習、付き合う」


 さらりと言い切られ、澪は呆れたように肩をすくめた。 

 「……彼女はいいの?」

 

 「昨日、別れた」


 「はあ!?」

 思わず声が裏返る。


 「昨日のデートのあとに“明日も会いたい”って言われたんだよ。でも僕、“明日は澪と過ごしたい”って言ったら、泣かれちゃってさ。僕、女の子に泣かれるのって苦手なんだよねー。めんどくさくなっちゃって“別れよっか”って」


 「うひゃー……私の名前出さないでくれる? それにそんな言い方したら、佐木さん誤解するよ」

 澪は思わずドン引きした顔で口を尖らせる。


 カイは肩をすくめ、悪びれもせずに笑った。

 「え? だって本当のことだし。僕がここにいる目的は、澪の願いを叶えることなわけだから……優先順位としては、あの子より澪なんだよね」


 「……」

 澪はしばし黙り込み、ラケットバッグの持ち手をぎゅっと握った。

 それから真剣な顔で言う。


 「簡単に別れるくらいなら、付き合ったらかわいそうだよ。カイは軽い気持ちだったかもしれないけど、相手は本気でカイのこと好きだったのかもしれないでしょ?」


 澪の視線は真っすぐで、言葉はいつもより厳しかった。


 けれどカイは肩をすくめるだけだ。

 「僕から見れば、外見しか知らないのに告白してくる方が、よっぽど軽いと思うけどな」


 「……はあ、そう思いながら付き合ったのはあんたでしょ? だったらなんで付き合ったりしたの?」

 

 カイは小さく笑って、さらりと答える。

 「彼女がいれば、他の子から告白されたりちょっかい出されたりしにくいでしょ? だから僕、いつもそうしてるんだ」

 

 「……それ、相手が聞いたらどう思うか、考えたことある?」

 

 澪はため息をつき、それ以上は何も言わずに歩き出した。

 隣で口笛を吹くカイの横顔に、どうにも調子を合わせられないまま。




 ***




 朝の河川敷。

 壁にぶつかっては跳ね返る、ボールの乾いた音が、規則的なリズムを刻んでいた。


 カイは黙ってその姿を見つめる。

 胸の奥で、ひとりごとのように思考が零れる。

 


  ――白川澪、十七歳。

  真面目で、曲がったことができない正直者。

  仲間のために涙を流し、目的のために努力を惜しまない。


  だからといって、特別だとは限らない。

  そんな娘、今までにも何人も見てきた。

  彼女が適格者かどうか――まだ手応えはないに等しい。


 

 カイは無言で、澪が打ち漏らしたボールを拾い上げる。

 振り返った澪に向かって、にっと笑みを浮かべながら軽く投げ返した。

 ただ、それだけの距離感を保っていた。


 ……その時。


 「おー、すげえ、テニスかよ。いい音させてんな」

 河川敷の奥から、だらしなく笑う声が響いた。

 振り返ると、三人組の若い男たちがこちらに近づいてきていた。


 「なあなあ、テニス俺らも混ぜてよ」

 ひとりが言い、もうひとりが澪を値踏みするように眺める。

 「あれ? 男かと思ったら女の子じゃん。……よく見りゃ結構かわいいな」


 そう言って、ひとりが澪のラケットに手を伸ばした。

 「っ……やめてください! それ、大切なラケットなんです!」

 澪は慌てて取り返そうとするが、男は面白がるようにひらひらと振ってみせる。


 カイは小さく息を吐き、数歩近づいた。

 「君たちさ、その子、もうすぐ大切な大会なんだ。邪魔するのはやめて、そっとしておいてくれる?」


 にこやかに、まるで軽い世間話でもするような調子。

 だがその声音には、不思議な圧があった。


 「……っ、なにこいつ」

 「チッ、スポーツ系の爽やか女子かと思ったら、リア充セットかよ」

 「つまんねーな」


 吐き捨てるように言って、男はラケットを投げ捨てた。

 砂の上を転がるその瞬間、澪の胸がきゅっと縮む。

 

 ――ふざけないで。

 自分の汗と努力を刻んできた相棒を、まるでゴミみたいに扱われたことが、悔しくて仕方なかった。

 「……っ!」

 思わず声を上げ、澪は駆け寄った。

 

 澪がラケットに手を伸ばした瞬間、ひょいと別の手がそれを拾い上げた。

 カイが微笑みながら、ラケットを澪へ差し出す。


 カイは表情を変えずに、さらに彼らに歩み出た。

 「やめなよ。あれはあの子の大切なものだって、言ったでしょ?」


 その一言に、男たちの顔色が変わる。

 「……なんだよ、お前。文句あんのか?」

 「その綺麗な顔に穴開けてやろうか」


 吐き捨てるように言いながら、ひとりが持っていたタバコの火をカイの顔へ突きつける。

 カイは笑みを崩さず、その先端を指でつまんだ。

 ――じゅっ。

 小さな音とともに、火は瞬く間に消えた。


 「……っ」

 男たちの目に一瞬、狼狽の色が浮かぶ。

 「な、なんだこいつ……」

 「やべーやつじゃん……」


 苛立ち紛れに、ひとりがカイの胸倉をつかむ。

 次の瞬間、カイの瞳に青白い光が宿った。

 ふわりと広がった魔力に、空気がかすかに震える。


 ――だが、その時。


 「やめてください!」

 澪が駆け寄り、男の腕を掴んだ。

 「この手を離して。こっちは何もしていないのに、勝手に絡んできて……高校生相手に暴力って、恥ずかしくないんですか!」


 澪の真剣な目に見据えられ、男たちは一瞬だけ言葉を失った。

 「……チッ、ガキ相手に時間のムダだわ。行くぞ」

 舌打ちとともに、三人は踵を返し、その場を後にした。


 張り詰めた空気が、ふっと緩む。


 カイは胸倉を整えながら、くすりと笑った。

 「……澪、今のって僕をかばった?

 わざわざ危ない真似しなくてもよかったのに。僕なら、あの人たちまとめて川に落とせたよ」

 

 「やっぱり魔法を使おうとしてたんだ」

 澪はラケットを抱きしめながら、睨むように言う。

 「暴力に暴力で返してどうするの」


 カイは肩をすくめて笑った。

 「その方が、早く片付くじゃない?」


 「そうだったとしても……そんなことしたら、あの人たちと変わらないじゃん。それにさ、灯の足を治してくれたカイの魔法を、そんなことに使わせたくないよ」


 その声は震えていたが、真っすぐだった。


 カイは小さく目を細める。

 

  ――まったく、正直で、曲がらない子。


  ――あんな小競り合いを“暴力”だと感じる世界で生きてきた娘。

  ――彼女から見れば、僕の歩いてきた場所は――血と死の影にまみれた世界。


  ……僕の手を汚させまいとして、かばうなんて。

 

 まるで自分が“普通の人間”の様に扱われているようで、思いもよらず、カイの心の奥にわずかな波紋が広がった。




 ***




 昼の河川敷を抜けて、二人は並んで歩いていた。

 練習で汗ばんだ澪がタオルで額をぬぐい、照れくさそうに口を開く。


 「……今日はありがと。練習付き合ってくれて」

 

 「気にしなくていいよ。いつでも手伝うから言って」

 

 カイはポケットに手を突っ込んだまま、気楽そうに笑う。

 「ひとりで来てたら、また今日みたいに変なの来るかもしれないし」


 「……まあ、めったにないけどね。でも、それもありがと」

 澪がそう言って肩をすくめると、カイがふと思い出したように顔を向けた。


 「そういえばさ、最近のお願いって“ぐっすり眠らせて”ばっかりじゃない? 他に何か願いはないの?」

 「うーん……ない!」

 澪は少し考えた末に、笑いながらきっぱり答えた。


 「えー。澪って、ぐっすり眠る以外の欲望ってないわけ?」

 「ちゃんと他にも叶えてくれたじゃん」

 「え、何のこと?」

 「……灯の足のことだよ」


 澪が真剣に言うと、カイは目を細めて口元を緩める。

 「僕ってさ、結構すごい魔法使いなんだよ? もっとないの? 澪の“願い”」

 「……えー」

 澪は少し悩んでから、ぽつりとつぶやいた。

 「じゃあ……お父さんが健康で、元気で、長生きしてくれますように、とか?」

 

 「……そっか」

 カイはしばし黙り、どこか遠くを見ながら小さく笑った。


 すぐに、またいつもの調子で肩をすくめる。

 「でもさ、うら若き乙女の願いが“父親の健康”って……ちょっとシブすぎない?」

 「うら若き乙女って! 言い方古っ!」


 澪が呆れて笑うと、カイも口笛を吹きながら歩き出した。

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