11.揺れる境界線
夕食が終わり、澪は自室に戻って机に向かった。
宿題のプリントに鉛筆を走らせるが、字面を追っているだけで、頭の中は別のことばかりを巡っている。
気づけば大きくため息をついていた。答えを埋め終えると、澪はシャーペンを置き、立ち上がる。気づいたら足が勝手に動いていた。
――カイの部屋へ。
そこはもともと物置同然に使われていなかった客間だ。けれど今は綺麗に整えられて、まるで最初からカイの部屋だったかのような空気をまとっている。
澪は扉の前で小さくノックをした。
「……カイ、入っていい?」
中からすぐに声が返ってくる。
「どうぞ」
そっと扉を開けると、窓際にいるカイがこちらを向いていた。
「どうしたの?」
「……べつに」
言い出しかねるように澪は目を逸らす。
カイがにっと笑った。
「昨日の“ズルの境界線”の話?」
澪は小さく頷いた。
「……あのさ、灯の足。魔法で……治せる?」
「たいていの怪我ならね。欠損部位を再生するとかは厳しいけど」
カイは軽い調子で言ったが、その目は澪をまっすぐに射抜いていた。
「でも――迷ってるんでしょ?」
澪は口を噤む。
それでも胸に渦巻いていた思いを、抑えきれずに言葉に変えた。
「……灯は、うちの一番のエースなんだ。あの子が出るか出ないかで、団体戦の勝敗が大きく変わる」
唇を噛んだあと、続ける。
「それに、灯は個人でも県大会出場が決まってる。今回の大会で結果を残せば、大学の推薦にも関わってくる。ずっと部長として私たちを引っ張ってきた灯に、高校最後の大会のコートに立たせてあげたい。
……でも……魔法で怪我を治して出場するのって、ずるい気がして……」
カイは少し肩を竦めて、ため息混じりに笑った。
「そこまで思ってるのに、なんで悩むの? 魔法で治したって、僕と君以外、誰も気づきやしない。……そんなの気にするなんて、澪ってほんと――“お人好し”だよね?」
澪は一瞬反発しかけたが、自分でも思い当たるものがあって、苦笑いを浮かべた。
「……うん、自分でもそう思う。だけど……他の学校の子たちも、必死に練習して一勝を勝ちとってきてるんだよ。正々堂々と戦うのに、どんな形であれ魔法を使うなんて……やっぱり違うんじゃないかって」
カイはわずかに視線を落とし、そしてまた、すっと澪を見据える。
「澪はさ、まじめで真っすぐで、見たまんま裏表がなくて。……とっても“正直”な子だと思うよ」
その声音は、普段の軽さとは違う、少しだけ真剣な響きを帯びていた。
「でもさ。自分がどうしても欲しいものは、なりふり構わず取りに行かないと。……そっちの方が後悔するんじゃない? “運も実力のうち”っていうでしょ。僕と君が出会って、灯ちゃんの足が治せるなら――それはそれで、君の実力ってことでいいんじゃないかな?」
その言葉に、澪ははっと顔を上げた。
カイの深海のような青い瞳が、どこまでも澪を見透かしている気がして――胸の奥が、不意に熱くなる。
「……後悔、か……。私、怖いんだよ。ズルしたって思いながら勝つのも、出させてあげられなくて後悔するのも」
澪の声はかすかに震えていた。
カイは少し目を細め、ベッドの端に腰を下ろしながら言った。
「澪ってさ、ほんと真面目すぎ。勝っても負けても、きっと後悔するんだろうね」
「……じゃあ、どうすればいいの」
思わず問い返す澪に、カイは肩を竦めて笑う。
「簡単だよ。後悔しても“納得できる方”を選べばいい。ズルって思っても、それで灯ちゃんが笑うなら悪くないでしょ?」
澪は言葉を失い、ただカイを見つめた。
その余裕ある笑みは、どこか人を試すようで――けれど不思議と、心の奥の不安を少しだけ軽くしてくれる。
「……なんかさ、カイってずるい」
「でしょ? でも罪な男だから、仕方ないんだよね」
思わず苦笑がこぼれ、澪は視線を伏せた。
胸に残る迷いは完全には消えていない。けれど――カイの、どこか無責任にも聞こえる言葉に、なぜだか少しだけ心が軽くなった気がした。
澪は顔を上げ、まっすぐにカイを見つめる。
「……今日のお願い。灯の足を――治してほしい」
カイは一瞬だけ目を細め、それからいつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「了解。君の願い叶えるよ」
そう言って軽く笑ったカイは、すっと立ち上がる。
「じゃあ――今から灯ちゃんの足を治してくるね」
「……えっ、今から!?」
澪の声が思わず裏返る。
カイはおかまいなしに窓へ歩み寄り、カーテンを片手で払いのけた。夜気がひんやりと流れ込み、月明かりが彼の輪郭を淡く照らす。
「ちょ、ちょっと待ってよ! こんな時間に……歩いて行くつもり!? それより、灯の家知らないでしょ?」
振り返ったカイは、いたずらっぽく片目をつむる。
「そんなこと、心配しなくて大丈夫。僕、魔法使いだよ?」
そう告げると、彼の足元から淡い青の光がふわりと立ちのぼった。光は水面のきらめきのように広がり、彼の身体をやさしく包み込む。
「……っ」
息をのむ澪の前で、カイの足先が床からわずかに離れた。
「澪もおいでよ。って言っても、一緒に飛ぶ勇気はないかな?」
軽口を叩くその声に、澪は言葉を失ったまま首を横に振る。
カイはくすっと笑い、窓枠に片足をかける。
「それじゃ、ちょっと行ってくる。……澪はここで応援しといて」
次の瞬間、青い光に抱かれた彼の姿がふわりと宙に浮かび上がった。
夜の闇へとすべるように飛び出していく背中を、澪は呆然と見送る。
「……やっぱり……本物の魔法使い、なんだ」
呟きが、夜風に溶けていった。




